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   <title>石見銀山遺跡とその文化的景観</title>
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   <published>2008-04-25T15:24:23Z</published>
   <updated>2008-07-09T04:50:12Z</updated>
   
   <summary>島根の世界遺産</summary>
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      <name>大地</name>
      
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■<strong>石見銀山</strong>（いわみぎんざん）
・登録区分　文化遺産
・登録年　　 2007年

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龍源寺間歩（入口）

■概要
石見銀山は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけての日本最大の銀山。鉱脈は石見国東部、現在の島根県大田市大森の地を中心とし、同市仁摩町や温泉津町にも広がっていた。日本を代表する鉱山遺跡として1969年（昭和44年）に国指定の史跡に登録された。2007年（平成19年）に、ユネスコの世界遺産への登録が決定された。同年、日本の地質百選に選定された。

殺鼠剤の『石見銀山』については、後述の「副産物」を参照のこと。

・市・県・国による文化財指定と保護
石見銀山にある歴史的な建造物や遺構は市・県・国などによって文化財に指定され保護されてきた。1967年（昭和42年）に石見銀山は島根県から「大森銀山遺跡」として県文化財史跡に指定され、さらに1969年（昭和44年）には国から「石見銀山遺跡」として国史跡に指定された。さらに、大森地区の町並みについても鉱山町として1969年（昭和62年）に重要伝統的建造物群保存地区に選定され、銀の積出港であった温泉津地区の町並みについても港町・温泉町として2004年（平成16年）に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。

・登録までの経緯
日本政府は「東西文明交流に影響を与え、自然と調和した文化的景観を形作っている、世界に類を見ない鉱山である」として、「石見銀山遺跡とその文化的景観」の世界遺産登録を目指し、2001年に世界遺産登録の前提となる「暫定リスト」に掲載し、2006年1月にUNESCO世界遺産委員会に推薦書を提出した。

2007年5月、各国から推薦された世界遺産登録候補を審査するUNESCOの諮問機関である国際記念物遺跡会議（ICOMOS）が、遺跡の普遍的価値の証明が不十分であることを理由に「石見銀山は登録延期が適当」と勧告した。それを受け、日本政府や地元は「世界遺産への登録は極めて厳しい」と判断したが、ユネスコ政府代表部は、委員会構成国の大使や専門家に、勧告に反論する110ページにわたる英文の「補足情報」を送るなどして、石見銀山の特徴である「山を崩したり森林を伐採したりせず、狭い坑道を掘り進んで採掘するという、環境に配慮した生産方式」を積極的に紹介し、巻き返しのための外交活動を展開した。

結果、「21世紀が必要としている環境への配慮」がすでにこの場所で行われていたことが委員の反響を呼び、6月28日、世界遺産委員会の審議により、世界遺産（文化遺産）としての登録が満場一致で正式に決定された。日本の世界遺産登録としては14件目であり、文化遺産としては11件目、産業遺跡としては日本国内初の登録となる。

石見銀山の登録に向けて日本政府の外交活動を率いた、ユネスコ政府代表部の近藤誠一大使は、2007年9月8日に、島根県大田市で開かれたシンポジウムの中で、銀山周辺に残る自然が逆転登録の決め手になったことを明かしている。近藤大使はICOMOSによる登録延期勧告を受け、各国の政府代表などに対し、石見銀山が伐採した分だけ植林していたことなど、自然に対する配慮の歴史を積極的に説明したところ、政府代表らの反応が良く強い手ごたえを感じたという。

■世界遺産
和名は島根県教育庁文化財課世界遺産登録推進室による公式サイトの表記、英語表記と数字はユネスコ世界遺産センターによる世界遺産登録物件名と世界遺産登録ID。

・銀鉱山跡と鉱山町
　銀山柵内
　代官所跡
　矢滝城跡
　矢筈城跡
　石見城跡
　大森銀山伝統的重要建造物群保存地区
　宮ノ前地区
　重要文化財　熊谷家住宅
　羅漢寺五百羅漢
　佐毘売山神社

・石見銀山街道
　鞆ヶ浦道
　温泉津沖泊道

・港と港町
　鞆ヶ浦
　沖泊
　温泉津伝統的重要建造物群保存地区


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      <![CDATA[■開発
『銀山旧記』などには、鎌倉時代末期の延慶年間に周防の大内弘幸が石見に来訪して銀を発見したという伝説が記されているが、今日、石見銀山を本格的に開発したのは博多の商人・神谷寿貞であるとされている。

『石見銀峯山清水寺天地院縁起』によれば、海上から山が光るのを見た神谷は領主大内義興の支援と出雲の銅山主・三島清右衛門の協力を得て1526年（大永6年）3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。義興の死後、大内義隆が九州経営に気を取られている間、1530年（享禄3年）に地方領主・小笠原長隆が銀山を奪い、3年後に大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。この年の8月、神谷寿貞は大森に入り、中国渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功した。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦（仁摩町）・沖泊（温泉津町）から鉱石のまま積み出され取引された。

<img alt="250px-Iwami_Ginzan_Silver_Mine%252C_Shimizudani_Refinery_Ruins_001.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/250px-Iwami_Ginzan_Silver_Mine%252C_Shimizudani_Refinery_Ruins_001.jpg" width="250" height="188" />
清水谷精錬所跡

■銀山争奪
1537年（天文6年）、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。大内義隆の死後は、毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、1562年（永禄5年）には最終的に毛利氏が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。1584年（天正12年）毛利氏が豊臣秀吉に服属すると銀山は毛利氏と豊臣氏の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた。

■商業への影響
石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていた。このため、精錬加工された銀（『丁銀』）は基本通貨として広く国内（主に銀本位制の西日本）で流通したばかりでなく、16世紀後半からマカオを拠点に来航するようになったポルトガルや17世紀初めに来航したオランダ東インド会社さらに中国密貿易商人らとの活発な交易をも支えた。当時の銀産出量は世界全体の三分の一(その生産量の平均は年間38トン程度であったと推測されている)に達し、スペインのペルー副王領ポトシ（現ボリビア、世界遺産）のセロ・リコと並ぶ銀産出地として西欧・中国でも有名になった。丁銀は秤量貨幣（額面が無く重量で価値が決定。取引の際は必要に応じ切り分けて使用）のため、原形をとどめる物は希少。

その殷賑ぶりは、当時のポルトラーノ地図にも記載されている。航海術の発展に伴って西欧諸国の王侯、特にスペイン国王はイスラム圏から入手した地図を大量に持っており、更には独自にかなりの地図を作成した。この地図を持った船団が、インド・マレー半島・中国・日本にも貿易の手を伸ばし、石見銀山で産出される銀を求めてやってきた。

銀山を手中にした武将（大内氏、尼子氏、毛利氏、豊臣氏）は積極的にこれらの海外諸国と貿易を行い、その輸入品の中に当時貴重であった『火縄銃』が含まれていた可能性も指摘されている。

なお、イギリス船やオランダ船は石見から産出される銀を「ソーマ銀」と呼んでいたといわれるが、これは銀鉱のある大森地区の旧名「佐摩」に由来するとされる。

■幕府直轄領
関ヶ原の戦い後、徳川家康は石見の江の川以東の地域を幕府直轄領とし、初代銀山奉行として大久保石見守長安を任命した。長安は山師（鉱山経営者）安原伝兵衛らを使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀を納め朱印船貿易の元手にもなった。銀山開発の費用・資材（燃料など）を賄うため、周辺の郷村に直轄領である石見銀山領（約5万石）が設置されて大森に奉行所が置かれた。安原伝兵衛の釜屋間歩の発見などにより17世紀初頭(慶長年間から寛永年間)に銀の産出はピークに達し、『当代記』によれば慶長7年（1602年）の運上銀は4〜5千貫に達したといわれる。その後、銀産出量は次第に減少し、1675年（延宝3年）に銀山奉行の職は大森代官に格下げされた（大森の奉行所は大森代官所となる）。

当初、産出した銀は現大田市の鞆ヶ浦（仁摩町）や沖泊（温泉津町）から船で搬出されていた。冬の日本海は季節風が強く航行に支障が多いため、長安は大森から尾道まで中国山地を越え瀬戸内海へ至る陸路の「銀山街道」（大森〜粕淵〜九日市（美郷町）〜三次〜甲山〜御調〜尾道）を整備し、尾道から京都伏見の「銀座」へ輸送するようにした。幕府（直轄地外では沿道各藩）による取り締まりの下、直轄地内の郷村に対する人的・物的負担や、街道各村にも銀の輸送にあたる人馬や経費負担（警備・接待など）の提供が厳しく課せられ、大きな負担となった。時として訴え出る者や争議が起こったが、この輸送は幕末まで続いた。

<img alt="200px-Hotspring_Yunotsu_Shimane_02.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/200px-Hotspring_Yunotsu_Shimane_02.jpg" width="200" height="150" />
かつての外港の一つ（温泉津の町並み）

1731年（享保16年）、大岡忠相の推挙により任ぜられた、第十九代代官の、井戸平左衛門正明（いどへいざえもんまさあきら）は60才の高齢と任期2年の短期にもかかわらず、領民から「いも代官」として慕われ、現在の島根県だけでなく鳥取・広島県にも功績を称える多くの頌徳碑が建てられている。その功績は、享保の大飢饉に苦しむ領民のため薩摩国から他の地域に先駆け石見国に甘藷（さつまいも）導入・普及をもたらし、飢饉の際には自らの財産や裕福な農民から募った浄財で米を買い、幕府の許可を得ぬまま代官所の米蔵を開いて与えたり、年貢を免除・減免した（後年、備中国笠岡で没した原因として病死説と切腹説があり、前者が概ね定説となっているが論議も続いている）。

石見銀山は江戸時代前期にも日本の膨大な銀需要を支えた（銅も産出）が、元禄期になると次第に産出量が少なくなり、江戸末期には深く掘らなければ銀を産出できなくなり地下水にも悩まされ採算がとれなくなっていった。

1866年（慶応2年）6月の第二次長州戦争において、幕府は石見国に紀州藩・備後福山藩・浜田藩・松江藩の藩兵を出動させたが、長州軍の村田蔵六（のちの大村益次郎）隊の進発を食い止めることができず、7月に浜田藩主・松平武聡は浜田城を脱出しその後落城した。これにより長州軍の石見銀山領への進撃は不可避なものとなり、最後の大森代官・鍋田三郎右衛門成憲は7月20日の夜に家来とともに備中国倉敷へと逃亡し、石見銀山の幕府支配は終焉を迎えた（温泉津町誌編纂委員会編『温泉津町誌』）。

以後、旧石見銀山領は長州藩の長州民政方（大森本陣）によって支配されることとなり、1868年（慶応4年）1月に長州藩預地となったのち、1869年（明治2年）8月には大森県が設置されて長州藩による支配は終わった。

■明治期以降の石見銀山と終末
石見銀山は1868年（明治元年）の太政官布告による民間払い下げにより田中義太郎が経営権を取得したが、1872年（明治5年）の浜田地震の被害を受けてしばらく休山となった。その後、1887年（明治19年）からは大阪の藤田組（後に同和鉱業から現在はDOWAホールディングス）により再開発の試みが続けられた。藤田組は採鉱施設・事務所などを大森から柑子谷（仁摩町大国）の「永久鉱山」に移すが、1923年（大正12年）には休山するに至った。その後、日中戦争、太平洋戦争の最中、軍需物資としての銅の国産化を目論んで、1941年（昭和16年）より銅の再産出を試みるものの、1943年（昭和18年）の水害で坑道が水没する大打撃を受け、完全閉山となる。鉱業権はDOWAホールディングスが保有している。

現在でも銀山採掘のために掘られた「間歩」と呼ばれる坑道が500余り残り、龍源寺間歩の一部は一般公開されている。

■副産物
石見（大森）銀山で銀を採掘する際に砒素は産出していないが、同じ石見国（島根県西部）にあった旧笹ヶ谷鉱山（津和野町）で銅を採掘した際に、砒石と呼ばれる黒灰色の鉱石が産出した。砒石には猛毒である砒素化合物（亜ヒ酸）を大量に含んでおり、これを細かく砕いたものを殺鼠剤とした。この殺鼠剤は主に販売上の戦略から、全国的に知れ渡った銀山名を使い、「石見銀山ねずみ捕り」あるいは単に「石見銀山」と呼ばれて売られた。

金銀の精錬工程として当時の日本においては先進的であった「灰吹法」という技術が使われ、その際に鉛の蒸気を吸い込んだ鉱夫たちは急性または慢性の鉛中毒を発症した。鉛には発がん性もあると考えられているので、坑道内の出水・高温多湿や鉱滓・煤塵などの劣悪な環境も相まって、当時の鉱夫は短命であったといわれる。大森地内に各宗派の寺院が多数あることや、古文書の研究からその平均寿命はおよそ30歳程度であり、家族構成はその多くが独身もしくは夫婦のみ、と伝えられている。「灰吹法」と似たものとして、水銀を用いるアマルガム法がある。
1977年（昭和52年）、作家杉本苑子は代官井戸平左衛門正明を題材にした小説「終焉」を発表。

■外部リンク
・<a href="http://www.pref.shimane.lg.jp/sekaiisan/iwami_ginzan/index.html">島根県/文化財課世界遺産登録推進室/石見銀山</a>
・<a href="http://www.iwamigin.jp/ohda/minasdeplata/ginzan/index.html">石見銀山（大田市）</a>
・<a href="http://fish.miracle.ne.jp/silver/index.html">石見銀山資料館 </a>

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   <title>知床</title>
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   <published>2008-04-24T14:08:03Z</published>
   <updated>2008-07-09T04:50:12Z</updated>
   
   <summary>北海道の世界遺産</summary>
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      <name>大地</name>
      
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■<strong>知床</strong>（しれとこ）
・登録区分　自然遺産
・登録年　　 2005年7月

<img alt="275px-Goko_Reflection.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/275px-Goko_Reflection.jpg" width="275" height="206" />
知床五湖と硫黄岳

■概要
知床は日本にある世界遺産登録物件。2005年7月14日に南アフリカ共和国 ダーバンで行われた第29回ユネスコ世界遺産委員会で2005年7月17日正式に登録された。

北海道の東端にあるオホーツク海に面した知床半島と、その沿岸海域が登録の対象となっている。半島中央部は、千島火山帯が貫き、海岸線は荒く海に削られた地域である。冬には世界で最も南端に接岸する流氷が訪れる。この流氷により大量のプランクトンが知床半島付近にもたらされ、サケなどの豊富な魚介類が生息する。サケは秋に知床の河川を遡上し、ヒグマやオジロワシなどに捕食される。これらの動物の排泄物および死骸は、植物の栄養素として陸地に還元される。

このような、海と陸との食物連鎖を見ることのできる貴重な自然環境が残る点が国際自然保護連合（IUCN）に評価され、2005年に世界自然遺産の登録物件となった。

日本では、自然遺産として3件目の登録。また、海岸線から約3km沖まで登録地域となり、日本で初めて海洋を含む自然遺産登録物件となった。

■地図

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      <![CDATA[■登録までの道標
・1964年6月　知床半島が知床国立公園に指定
・1986年〜1987年　「知床国有林伐採問題」発生
・1998年　斜里町、羅臼町の町予算に世界遺産登録事業費が計上
・2003年　日本政府が知床を世界遺産物件としてユネスコに推薦することを決定
・2004年　ユネスコに対して推薦状を提出
・2004年7月　IUCNによる実地調査
・2005年7月　世界自然遺産として正式登録

■課題
世界自然遺産に登録されるにあたり、IUCNからは2008年までに海域管理計画を策定し提出するよう求められている。

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オシンコシンの滝

当地域の特徴は、海岸線付近に多数の住民が住み、漁業を営んでいることにある。特に、羅臼町側は、付加価値が高く高品位の昆布、ホッケ、スケトウダラなどが漁獲できこともあり、観光業より漁業が盛んである。こうした住民事情から、世界遺産の申請に当たっては漁業規制の強化を行わないことを前提としていたが、結果的に海岸から3kmの区域を保護区域として設定したほか、海域管理計画の策定が義務づけられることとなった。

海域管理計画については、知床科学委員会の海域ワーキンググループにより、多利用型統合的海域管理計画として策定検討が進められ、2007年には海洋環境・生態系の保全と（現状以上の漁業規制を盛り込まない）持続的漁業の両立を盛り込んだ計画の素案がまとめられている。

なお、保護区域の目と鼻の先はいわゆる北方領土の国後島があり、実効支配しているロシア側がトロール船でスケトウダラを根こそぎ漁獲していく実態があることから、保護規制が課せられる羅臼側の漁業関係者は、ロシア側の資源管理についても踏み込むよう要望している。

<img alt="275px-Shiretoko01.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/275px-Shiretoko01.jpg" width="275" height="206" />
羅臼岳から見た知床連山

<img alt="275px-Rausu.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/275px-Rausu.jpg" width="275" height="204" />
羅臼岳

世界遺産登録地域内だけでも岩尾別川を始めとして、河川に数十基もの河川工作物（砂防ダム、治山ダム等のサケ科魚類の移動を妨げる河川の横断構造物）が存在している。サケの遡上の障害が指摘され、その対策として魚道(迂回水路)等の設置が検討されている。しかし砂防ダム等の河川工作物は海洋への土砂の流入を妨げており、また景観の点での問題だとの指摘を受けている。砂防ダム又は治山ダムを設置・管理している林野庁（治山ダムを設置）、北海道（砂防ダム及び治山ダムを設置）は土砂災害の予防の観点から撤去に難色を示した。

こうした構造物への対策として、知床科学委員会の河川工作物ワーキンググループでは、魚類等に対する影響評価及び改良方法の検討が進められており、2006年には助言を受ける形で対策工事も始まった。また、観光客とヒグマとの接近の防止、エゾシカやキタキツネなどへの餌付け行為の防止など観光客が増える点での課題も挙げられている。

■登録基準
この世界遺産は、世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ登録がなされた。

陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの。

生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意義深い自然生息地を含んでいるもの。これには科学上または保全上の観点から、すぐれて普遍的価値を持つ絶滅の恐れのある種の生息地などが含まれる。具体的には以下の重要性が基準(9)と基準(10)に該当するものとして認められた。

基準(9)
知床は海洋生態系と陸上生態系の相互作用を示す顕著な例である。そのたぐいまれな生物生産は流氷の形成に大きな影響を受けている。なお、知床は流氷が漂着する海岸としては、北半球で最南端に位置する。

基準(10)
知床はシマフクロウやシレトコスミレなどの絶滅危惧・固有の動植物が生育する地域であり、またサケ類やトド、クジラ類などの海洋生物の生存にとって重要な海域を含む。さらには、本地域は世界的にも絶滅の危機にある海鳥の生息地であり、渡り鳥にとって重要な場所でもある。

■アクセス
・西から国道334号、東から国道335号が通じている。

・斜里バス〜ウトロ温泉発着
釧網本線・知床斜里駅より約60分
知床五湖まで約1時間25分
石北本線・網走駅より約1時間50分
女満別空港より約2時間10分
中標津空港より約1時間30分

・網走バス（夏期・2月〜3月運行）〜ウトロ温泉発着
釧網本線・知床斜里駅より約45分
網走バスターミナル、石北本線・網走駅より約1時間30分
女満別空港より約2時間

・阿寒バス〜羅臼発着
根室本線・釧路駅より約3時間35分
中標津空港からは、根室交通根室行で中標津ターミナルまで約10分、上記バスに乗り換え約1時間30分

・阿寒バス・斜里バス（6月15日〜10月15日運行）
ウトロ温泉〜知床峠〜羅臼湖入口〜羅臼温泉〜羅臼

・斜里バス・北海道中央バス
イーグルライナー（札幌ターミナル・札幌駅前ターミナルより約7時間30分）

・上記の他、定期観光バスや周遊バスが運行される。
・知床岬へはウトロ港から遊覧船でのみ行くことができる。（但、営業は夏季のみで上陸はできない）

■外部リンク
・<a href="http://www.shiretoko.or.jp/">知床自然センター</a>
・<a href="http://pucchi.net/hokkaido/shiretoko/">世界自然遺産知床特集（北海道雑学百科プッチガイド）</a>

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   <title>紀伊山地の霊場と参詣道</title>
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   <published>2008-04-23T14:19:13Z</published>
   <updated>2008-07-09T04:50:13Z</updated>
   
   <summary>紀伊山地の世界遺産</summary>
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         <category term="日本の世界遺産" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="60" label="紀伊山地" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="87" label="熊野" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tokutoku21.net/archives/cat2/">
      <![CDATA[<img alt="50px-WHProj_Logo_80x80.png" src="http://www.tokutoku21.net/images/50px-WHProj_Logo_80x80.png" width="50" height="50" />

■<strong>紀伊山地</strong>の霊場と参詣道（きいさんちのれいじょうとさんけいみち）
・登録区分　文化遺産
・登録年　　 2004年

<img alt="275px-317749488.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/275px-317749488.jpg" width="275" height="367" />
紀伊山地の霊場と参詣道

■概要
紀伊山地の霊場と参詣道は、和歌山県・奈良県・三重県にまたがる、寺院や参詣道（熊野古道、大峯奥駈道、高野山町石道）などの総称。2004年7月7日、ユネスコの世界遺産（文化遺産）に登録された。（7月1日に登録が決定した）。

具体的には
・紀伊山地の文化的景観を形成する記念碑と遺跡は神道と仏教のたぐいまれな融合であり、東アジア　における宗教文化の交流と発展を例証する。
・紀伊山地の神社と仏教寺院は、それらに関連する宗教儀式とともに、1000年以上にわたる日本の宗　教文化の発展に関するひときわ優れた証拠性を有する。
・紀伊山地は神社・寺院建築のたぐいまれな形式の創造の素地となり、それらは日本の紀伊山地以外　の寺院・神社建築に重要な影響を与えた。
・と同時に、紀伊山地の遺跡と森林景観は、過去1200年以上にわたる聖山の持続的で並外れて記録　に残されている伝統を反映している。

■世界遺産
・吉野・大峯
・熊野
・高野山
・参詣道（熊野古道）

■地図

<img alt="275px-LocMap_of_WH_Kii_Mountain_Range.png" src="http://www.tokutoku21.net/images/275px-LocMap_of_WH_Kii_Mountain_Range.png" width="275" height="297" />


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      <![CDATA[【】内は遺産以外の名所など
■<strong>吉野・大峯</strong>（面積44.8ha）
・吉野山（奈良県吉野郡吉野町）
　金峯山寺
　如意輪寺
　桜本坊
　吉野水分神社
　金峯神社
　吉水神社

<img alt="180px-KinpusenjiZaodo.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/180px-KinpusenjiZaodo.jpg" width="180" height="135" />
金峯山寺蔵王堂（吉野の中心的存在）

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吉野山と山桜

・大峰山（同天川村）
　大峯山寺
　龍泉寺

■<strong>熊野</strong>
・熊野三山
　熊野速玉大社（和歌山県新宮市）
　熊野本宮大社（同田辺市本宮町）
　熊野那智大社（同東牟婁郡那智勝浦町）

<img alt="180px-Kumanohayatamataisha4s2032.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/180px-Kumanohayatamataisha4s2032.jpg" width="180" height="101" />
熊野速玉大社

・那智大滝

<img alt="180px-Nachi_Falls01s1800.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/180px-Nachi_Falls01s1800.jpg" width="180" height="270" />
那智滝

・青岸渡寺
・補陀洛山寺
・那智原生林

■<strong>高野山</strong>
・高野山（和歌山県伊都郡高野町）
　金剛峯寺
　金剛三昧院

<img alt="180px-Mt_Koya_monks.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/180px-Mt_Koya_monks.jpg" width="180" height="122" />
高野山

・慈尊院（同九度山町）
・丹生官省符神社
・丹生都比売神社（同かつらぎ町）

■<strong>参詣道（熊野古道）</strong>
・大峯奥駈道（吉野・大峯 - 熊野三山、約140km）
　【弥山】（奈良県吉野郡天川村）
　玉置神社（奈良県吉野郡十津川村）
・小辺路（高野山 - 熊野三山、約70km）
・中辺路（田辺 - 熊野三山）
　【大門坂】
　熊野川
　雲取越え
・大辺路（田辺 - 串本 - 熊野三山、約120km）
・伊勢路（伊勢神宮 - 熊野三山、約160km）
　花窟神社（三重県熊野市）
　【鬼ヶ城、獅子岩】
　七里御浜（三重県熊野市 - 三重県南牟婁郡紀宝町）

<img alt="180px-Hananoiwaya_Shrine01.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/180px-Hananoiwaya_Shrine01.jpg" width="180" height="135" />
花窟神社（神体の巨岩）

・高野山町石道（金剛峰寺 - 慈尊院）
・【紀伊路（大阪 - 田辺）】

■問題
・地権者との対立
三重県尾鷲市で遺産登録地域の地権者が抗議の意を込めて参道の樹木などに落書きをしており問題になっている。一般的ないたずらの落書きとは違い抗議が目的であるために強硬な措置は取られず話し合いにより解決する方向である。これは、地権者に対する事前説明がなされずに遺産登録されたため、地権者の職業である林業が出来なくなったためである。

・観光地化による影響
遺産本体部分やその緩衝地帯、さらには（世界遺産には含まれないが）その周辺地域での損壊が絶えない。特に、参詣道跡である熊野古道周辺でそれが著しい。また、世界遺産登録後、観光客の殺到によって一部の遺産では荒廃が進んでいるとの指摘もある。

・関西電力の風力発電計画
2005年1月、関西電力は果無山脈に風力発電のための風車を建設する計画を発表した。果無山脈は遺産にも緩衝地帯にもあたらないが、熊野古道から容易に眺望しうるため景観に悪影響を与える恐れがある。又、果無山脈それ自体が近隣の河川（熊野川、日置川、富田川、日高川）の分水嶺となっており、工事による河川への悪影響が懸念されている。

・古道の「整備」
中辺路・大辺路を中心に2002年頃から数度にわたり、地元自治体の公共事業（古道の整備を目的とする）、古道とその周辺での植生の刈り払いが何度か行われたが、景観の悪化や、貴重な照葉樹林の損失など、むしろ弊害が大きく批判の対象となっている。加えて、いくつかの事例には和歌山県が関与している他、国の緊急地域雇用創出特別基金事業の下で行われた県の公共事業「緑の雇用事業」の一環であるものもあるなど、行政当局の遺産保護に対する姿勢や「縦割り」の弊害を問う声があがっている。

■外部リンク
・<a href="http://www.bunka.go.jp/1hogo/sekai_kiisanchi.html">紀伊山地の霊場と参詣道について（文化庁）</a>
・<a href="http://www.pref.wakayama.lg.jp/sekaiisan/">紀伊山地の霊場と参詣道（和歌山県）</a>
・<a href="http://www.nanwa.or.jp/sekaiisan/">世界遺産登録記念フェスタ実行委員会</a>

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   <title>琉球王国のグスク及び関連遺産群</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tokutoku21.net/archives/cat2/post_11/" />
   <id>tag:www.tokutoku21.net,2008://1.13</id>
   
   <published>2008-04-18T02:03:59Z</published>
   <updated>2008-07-09T04:50:15Z</updated>
   
   <summary>沖縄の世界遺産</summary>
   <author>
      <name>大地</name>
      
   </author>
         <category term="日本の世界遺産" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="58" label="グスク" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="56" label="今帰仁城" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="85" label="琉球王国" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tokutoku21.net/archives/cat2/">
      <![CDATA[<img alt="50px-WHProj_Logo_80x80.png" src="http://www.tokutoku21.net/images/50px-WHProj_Logo_80x80.png" width="50" height="50" />

■<strong>琉球王国</strong>のグスク及び関連遺産群
（りゅうきゅうおうこくのグスクおよびかんれんいさんぐん）
・登録区分　文化遺産
・登録年　　 2000年

<img alt="200px-Nakijinjyousi2.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/200px-Nakijinjyousi2.jpg" width="200" height="266" />
今帰仁城跡

■概要
2000年にユネスコの世界遺産（文化遺産）に登録された。
グスクなどの琉球王国の史跡群を総称した名称である。
沖縄本島の主に南部に点在する。

尚、グスクの登録の名称は下記のとおり「じょうあと」で、「ぐすくあと」、「じょうせき」とはしていない。

■世界遺産
・今帰仁城跡（なきじんじょうあと）
・座喜味城跡（ざきみじょうあと）
・勝連城跡（かつれんじょうあと）
・中城城跡（なかぐすくじょうあと）
・首里城跡（しゅりじょうあと）
・園比屋武御嶽石門（そのひゃんうたきいしもん）
・玉陵（たまうどぅん）
・識名園（しきなえん）
・斎場御嶽（せいふぁうたき）

■地図

<img alt="275px-LocMap_of_WH_the_Kingdom_of_Ryukyu_ja.png" src="http://www.tokutoku21.net/images/275px-LocMap_of_WH_the_Kingdom_of_Ryukyu_ja.png" width="275" height="283" />


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      <![CDATA[■<strong>今帰仁城跡</strong>（なきじんじょうあと）
・通称         北山城
・城郭構造　山城
・築城主　　 湧川按司か
・築城年　　 13世紀頃か
・主な城主   北山王・第一尚氏
・廃城年　　  寛文5年（1665年）
・遺構　　　   城壁・石垣

今帰仁城（なきじんぐすく・なきじんじょう・別名：北山城
（ほくざんじょう・ほくざんぐすく））は、沖縄県国頭郡今帰仁村にある城跡。
14世紀に琉球王国三山時代の三山の一つ・北山王の居城であった。国指定史跡。

<img alt="260px-Nakijinjyousi2.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/260px-Nakijinjyousi2.jpg" width="260" height="346" />
今帰仁城

・案内
城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多量に出土し、往時の繁栄をうかがわせる。北山は尚巴志に1416年（1422年説もある）に滅ぼされるが、北山が滅ぼされた後も旧北山統治の要所として引き続き使用され、北山監守が派遣された。1609年の薩摩藩による琉球侵攻の際には、その攻撃の第一目標となった。

現在も石垣などの遺構の整備が進み、今帰仁城跡として1972年（昭和47年）5月15日に国の史跡に指定される。門から城の中心部へと向かう階段（戦後に造られたもの）の左右にはカンヒザクラの並木があり、毎年1月末〜2月始めに開花する。本部町の八重岳などと並び、沖縄県の桜の名所として知られている。城内には志慶真乙樽歌碑や山北今帰仁城監守来歴碑記などの碑もある。

<img alt="250px-Nakijingusuku-200703.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/250px-Nakijingusuku-200703.jpg" width="250" height="166" />
今帰仁城跡入口

2000年（平成12年）11月に首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産（文化遺産）に登録された（登録名称は今帰仁城跡）。

それ以降、売店が1軒ぐらいしかなかった寂しかった城跡は徐々に整備（及び修復作業の強化）され、城跡入口そばにあった駐車場の移設、場内に入る際のチケット販売所のグスク交流センターへの移設などが行われ、2005年（平成17年）9月1日、グスク交流センターや観光バス駐車場などの周辺設備の整備に伴い、今帰仁城跡のみの入場料が「今帰仁城跡と歴史文化センター」の合算（セット）料金となり、300円から400円に値上げされた。

2006年（平成18年）4月6日、日本100名城（98番）に選定され、2007年（平成19年）6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

<img alt="250px-Nakijin-keshiki.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/250px-Nakijin-keshiki.jpg" width="250" height="188" />
御内原からの眺望

・城域
南北350ｍ、東西800ｍ、面積37000u。
沖縄県最大級の城（グスク）として名高い。

・観光
観覧料（歴史文化センターと共通）
大人　400円・小中高校生300円

・アクセス
バス路線
各路線の詳細は、系統名の右のバス会社またはバスマップ沖縄を参照。
今帰仁城跡入口バス停
65番（本部半島（渡久地廻り）線）　琉球バス交通　沖縄バス
66番（本部半島（今帰仁廻り）線）　琉球バス交通　沖縄バス


■座喜味城跡（ざきみじょうあと）
■勝連城跡（かつれんじょうあと）
■中城城跡（なかぐすくじょうあと）
■首里城跡（しゅりじょうあと）
■園比屋武御嶽石門（そのひゃんうたきいしもん）
■玉陵（たまうどぅん）
■識名園（しきなえん）
■斎場御嶽（せいふぁうたき）

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   <title>日光の社寺</title>
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   <id>tag:www.tokutoku21.net,2008://1.12</id>
   
   <published>2008-04-16T03:35:45Z</published>
   <updated>2008-07-09T04:50:16Z</updated>
   
   <summary>日光の世界遺産</summary>
   <author>
      <name>大地</name>
      
   </author>
         <category term="日本の世界遺産" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="84" label="東照宮" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="54" label="徳川家康" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="52" label="日光" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tokutoku21.net/archives/cat2/">
      <![CDATA[<img alt="50px-WHProj_Logo_80x80.png" src="http://www.tokutoku21.net/images/50px-WHProj_Logo_80x80.png" width="50" height="50" />

■<strong>日光</strong>の社寺（にっこうのしゃじ）
登録区分　文化遺産
登録年　　 1999年

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日光東照宮　陽明門

■概要
日光の社寺は、栃木県日光市に存在する寺院等の総称。1999年12月2日にモロッコのマラケッシュで開催されたユネスコ世界遺産委員会で世界遺産(文化遺産)として登録された。

地元では「二社一寺」と呼ばれている。
103棟（国宝9棟、重要文化財94棟）の「建造物群」。
他に、これらの建造物群を取り巻く「遺跡（文化的景観）」。

■世界遺産
・日光東照宮
・日光二荒山神社
・日光山輪王寺

■地図

<img alt="270px-LocMap_of_WH_Shrines_and_Temples_of_Nikko.png" src="http://www.tokutoku21.net/images/270px-LocMap_of_WH_Shrines_and_Temples_of_Nikko.png" width="270" height="291" />


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      <![CDATA[■<strong>日光東照宮</strong>（にっこうとうしょうぐう）
・所在地　栃木県日光市山内2301
・主祭神　徳川家康公
　　　　　　（相殿）豊臣秀吉公・源頼朝卿
・創建 　　元和3年（1617年）

日光東照宮は栃木県日光市にある神社。江戸幕府初代将軍徳川家康を神格化した東照大権現を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが多い。

東国の精神的中心としての歴史は徳川氏の東照宮を遥かに早く、遅くとも源義朝による日光山造営までさかのぼりうる。さらに頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた。徳川氏の東照宮造営はこの歴史を巧みに利用したと考えられる。

<img alt="250px-NikkoYomeimon5005.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/250px-NikkoYomeimon5005.jpg" width="250" height="129" />
東照宮

・歴史
元和2年（1616年）4月17日、徳川家康は駿府（静岡）で死去した。遺骸は遺命により直ちに駿河国の久能山へ葬られた（久能山東照宮）が、翌元和3年に下野国日光へ改葬された。同年4月に社殿が完成し、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日に奥院廟塔に改葬され、4月17日に遷座祭が行われた。なお、改葬の際、吉田神道と山王神道のどちらで祀るかで論争となったが、天海が主張した山王一実神道が採用され、薬師如来を本地仏とする神仏習合により祀られることになった。

寛永11年（1634年）には、9月に将軍徳川家光が日光社参し、寛永13年の21年神忌に向けて社殿の大造営に着手する。総奉行は秋元泰朝、普請は大工の甲良宗広ら一門が手がけた。翌寛永13年には、江戸へ来訪した朝鮮通信使が対馬藩主宗氏の要請で日光参詣を行っており、将軍家の政治的威光にも利用されている。正保2年（1645年）に朝廷から宮号が授与されて東照社から東照宮に改称した。国家守護の「日本之神」として、翌年の例祭からは朝廷からの奉幣が恒例となり、奉幣使（日光例幣使）が派遣された。

家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。家康は遺言中に「遺体は久能山におさめ、（中略）一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神としてまつること。そして、八州の鎮守となろう」と述べている。家康が目指した「八州の鎮守」とは、「日本全土の平和の守り神」である。家康は、不動の北極星の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたのである。

明治の神仏分離により、日光は神社の東照宮・二荒山神社、寺院の輪王寺の二社一寺の形式に分立した。現在でも、一部の施設について東照宮と輪王寺の間で帰属について係争中のものがある。明治6年に別格官幣社に列せられ、第二次世界大戦後は神社本庁の別表神社となっていたが、昭和60年に神社本庁を離れて単立神社となった。

<img alt="250px-%25E6%2597%25A5%25E5%2585%2589%25E6%259D%25B1%25E7%2585%25A7%25E5%25AE%25AE%25E9%2599%25BD%25E6%2598%258E%25E9%2596%2580001.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/250px-%25E6%2597%25A5%25E5%2585%2589%25E6%259D%25B1%25E7%2585%25A7%25E5%25AE%25AE%25E9%2599%25BD%25E6%2598%258E%25E9%2596%2580001.jpg" width="250" height="230" />
陽明門（本殿側から見る）

・日光東照宮と陰陽道
日光東照宮は、陰陽道に強い影響を受け、本殿前に設けられた陽明門とその前の鳥居を中心に結んだ上空に北極星が来るように造られているという。また、その線を真南に行けば江戸へ着くとされ、さらに主要な建物を線で結ぶと北斗七星の配置と寸分違わぬよう設計されているという。そのため陽明門前の写真店屋のある辺りが日本一運気の強い場所と言われている。

・社殿に見える動物
日光東照宮を訪ねると様々な建物に多様な動物を見ることができる。これらの動物は全て平和を象徴するものとして描かれている。「見ざる、言わざる、聞かざる」で有名な3匹の猿は実は神厩舎に造られた8枚の浮彫画面の1枚に過ぎない。これは、8枚で猿の一生が描かれており、ひいては人間の平和な一生の過ごし方を説いたものとなっている。

なお、「見ざる、言わざる、聞かざる」は幼少期には悪事を見ない、言わない、聞かない方がいいという教えである。 三猿にさらにもう一匹加えることがある。その猿は「し猿」と呼ばれ、股間を両手でおさえている。「し猿」は、「しざる」（姦淫をしない）と「四猿」をかけたものである。三猿は、眠り猫に続いて日光の彫像の中では有名なものである。 奥社入口を護る「眠り猫」にしても実は家康を護るために寝ていると見せ掛け、いつでも飛びかかれる姿勢をしているともいわれているが、もう一つの教えとして（裏で雀が舞っていても）「猫も寝るほどの平和」を表しているのである。

<img alt="250px-Nikko-toshogu_karamon.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/250px-Nikko-toshogu_karamon.jpg" width="250" height="188" />
唐門

<img alt="250px-Nikko-toshogu_okusha.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/250px-Nikko-toshogu_okusha.jpg" width="250" height="171" />
奥社　唐門と銅宝塔（徳川家康墓）

・アクセス
最寄駅：東武日光線東武日光駅・JR東日本日光線日光駅。
駅から東武バス日光の中禅寺温泉・湯元温泉方面。
奥細尾行きおよび世界遺産めぐり循環バスを利用し西参道下車。

関東自動車の一般路線バス・JR宇都宮駅〜東武駅前〜日光駅前（JR・東武）〜日光東照宮行きに乗車、終点で下車となる。

日光駅の各2停留所は、駅前に乗り入れず、駅そばの国道119号上のバス停からの利用となる。尚、関東自動車は、3社共通バスカードの利用も可能。

定期観光バス
日光駅発（日光交通）
鬼怒川温泉駅発（日光交通）
東京発（はとバス）

駐車場：有り

・外部リンク
<a href="http://www.toshogu.jp/">日光東照宮ホームページ</a>
<a href="http://www.mct.gr.jp/">日光国立公園</a>
<a href="http://www.toshogu.net/">全国東照宮連合會</a>


■日光二荒山神社
■日光山輪王寺

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   <title>古都奈良の文化財</title>
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   <published>2008-02-10T15:23:56Z</published>
   <updated>2008-07-09T04:50:16Z</updated>
   
   <summary>奈良の世界遺産</summary>
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      <name>大地</name>
      
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   <category term="82" label="古都奈良" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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■<strong>古都奈良</strong>の文化財（ことならのぶんかざい）
・登録区分　文化遺産
・登録年　　 1998年

<img alt="275px-Toudaiji_daibutsuden_1.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/275px-Toudaiji_daibutsuden_1.jpg" width="275" height="206" />
東大寺大仏殿

■概要
古都奈良の文化財は、奈良県奈良市地域に存在する寺院等の総称。1998年12月2日京都市で開催されたユネスコ世界遺産委員会で日本に於ける9件目の世界遺産（文化遺産）として登録された。

古都奈良の文化財は日本建築と日本美術の進化のひときわ優れた証拠性を有しており、それらは中国と朝鮮との文化的つながりの結果であり後世の発展に重要な影響を与えることになった。

奈良の建築遺産は、奈良が首都であった時代に開花した日本文化の唯一の証左である。奈良における皇室宮殿の配置と現存文化財の設計は、初期アジアの首都群の建築と都市設計に関するきわだった例である。

奈良の仏教寺院と神社は、ひときわ優れた形で宗教の連続的な力と影響を証明する。

■世界遺産
・東大寺
・正倉院
・興福寺
・春日大社
・元興寺
・薬師寺
・唐招提寺
・平城宮跡
・春日山原生林

■地図

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■外部リンク
<a href="http://narashikanko.jp/j/isan/">世界遺産「古都奈良の文化財」</a>奈良市観光情報センター
<a href="http://www.nara-kankou.or.jp/world/index.htm">奈良大和路の世界遺産</a>奈良県


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      <![CDATA[■<strong>東大寺</strong>（とうだいじ）
・所在地　奈良県奈良市雑司町406-1
・宗派　　 華厳宗大本山
・本尊　　 盧舎那仏（国宝）
・創建年　8世紀前半
・開基　　 聖武天皇

東大寺は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の仏教寺院である。現別当（住職）は219世・上野道善。

「金光明四天王護国之寺」（こんこうみょうしてんのうごこくのてら）ともいい、奈良時代（8世紀）に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏（るしゃなぶつ）を本尊とし、開山（初代別当）は良弁僧正（ろうべんそうじょう）である。

奈良時代には中心堂宇の大仏殿（金堂）のほか、東西2つの七重塔（推定高さ約100メートル）を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代、18世紀初頭の再建で創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで貴賎を問わず広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の本山にあたる「総国分寺」と位置づけられた。

<img alt="250px-Toudaiji_daibutu_migi.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/250px-Toudaiji_daibutu_migi.jpg" width="250" height="188" />
大仏（国宝、盧舎那仏）

・補注
東大寺の記録には良弁以来の歴代別当が記録されているが、奈良時代期の重要決定・文書が別当ではなく三綱の名義で出されている事など矛盾も多く、良弁が東大寺の初代の住持であったのは事実であるが、実際に彼が就任したのは「造東大寺司」の別当であり、東大寺の代表者としての別当職の成立は「造東大寺司」が廃された平安初期頃と推定されている。

異説として大和国国分寺は「総国分寺」である東大寺とは別個に設置され、奈良県橿原市八木町にある国分寺をこれにあてる説も存在する。

もっとも、華厳宗は開山・良弁ゆかりの宗派として重要視され、近代以前においても日本における華厳宗研究の中心地として、多数の優れた学僧を輩出していた。

東西の七重塔に関しては、一時、再建が検討されたが木造による完全復元は建築基準法に抵触するため断念せざるを得ず、再建は見送られた（鉄筋コンクリートによる再建は可能だが、歴史的建造物としての意味が薄れる）。

・アクセス
JR奈良駅（約8分）、近鉄奈良駅（約4分）より奈良交通市内循環バス外回り系統で「大仏殿春日大社前」下車、徒歩5分。または各駅から徒歩。

・外部リンク
<a href="http://www.todaiji.or.jp/">東大寺ウェブサイト</a>


■正倉院
■興福寺
■春日大社
■元興寺
■薬師寺
■唐招提寺
■平城宮跡
■春日山原生林

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   <title>厳島神社</title>
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   <published>2008-02-08T03:13:04Z</published>
   <updated>2008-07-09T04:50:17Z</updated>
   
   <summary>厳島神社の世界遺産</summary>
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      <name>大地</name>
      
   </author>
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   <category term="50" label="宮島" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="81" label="広島" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
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■<strong>厳島神社</strong>（いつくしまじんじゃ）
・登録区分　文化遺産
・登録年 　　1996年

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厳島神社の鳥居

■概要
厳島神社は、広島県廿日市市の厳島（宮島）にある神社。1400年の歴史をもつ。式内社（名神大）・安芸国一宮で、旧社格は官幣中社（現 別表神社）。日本全国に約500社ある厳島神社の総本社である。

宗像三女神（市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命）を祀る。市杵島姫命は神仏習合時代に弁才天と習合しており、当社は江ノ島・竹生島とともに日本三弁天の一つとされている。

厳島神社のある厳島（宮島）は俗に「安芸の宮島」と呼ばれ日本三景の一つとなっている。平家納経で有名。厳島神社の平舞台は、四天王寺（大阪市天王寺区）の石舞台、住吉大社（大阪市住吉区）の石舞台と共に「日本三舞台」の一つ。ユネスコの世界遺産（文化遺産）となっている。鳥居の高さは、１６b。

■地図

<img alt="270px-LocMap_of_WH_Itsukushima_Shinto_Shrine.png" src="http://www.tokutoku21.net/270px-LocMap_of_WH_Itsukushima_Shinto_Shrine.png" width="270" height="291" />


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      <![CDATA[■歴史
・所在地　広島県廿日市市宮島町1-1
・主祭神　市杵島姫・命田心姫命・湍津姫命
・創建　　 推古天皇元年（593年）

厳島神社のある宮島は、古代より島そのものが神として信仰の対象とされてきた。推古天皇元年（593年）、土地の有力豪族であった佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのに始まると伝わる。文献での初出は弘仁2年（811年）で、延喜式神名帳では「安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社」と記載され、名神大社に列している。

<img alt="270px-Itsukushima_%2528pano%2529.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/270px-Itsukushima_%2528pano%2529.jpg" width="270" height="94" />
遠景

平安時代末期に平家一族の崇敬を受け、仁安3年（1168年）ごろに平清盛が現在の社殿を造営した。平家一門の隆盛とともに当社も盛えた。平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けた。戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢が徐々に衰退するが、毛利元就が弘治元年（1555年）の厳島の戦いで勝利を収め、厳島を含む一帯を支配下に置き、当社を崇敬するようになってから再び隆盛した。元就は大掛かりな社殿修復を行っている。豊臣秀吉も九州遠征の途上で当社に参り大経堂を建立している。

明治4年（1871年）に国幣中社に列格し、明治44年（1911年）に官幣中社に昇格した。

■画像

<img alt="120px-ItsukushimaTorii7396.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-ItsukushimaTorii7396.jpg" width="120" height="80" />　　<img alt="120px-Itukusimajinja_fukans.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Itukusimajinja_fukans.jpg" width="120" height="74" />
鳥居　　　　　　　　　　　　全景

<img alt="120px-Itsushimajinja-1.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Itsushimajinja-1.jpg" width="120" height="90" />　　<img alt="120px-Itukusimajinja-sea-side01.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Itukusimajinja-sea-side01.jpg" width="120" height="90" />
参拝入口　　　　　　　　　海側より望む

<img alt="120px-Itsukushima2001-01.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Itsukushima2001-01.jpg" width="120" height="90" />　　<img alt="120px-Itsukushima_floating_shrine.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Itsukushima_floating_shrine.jpg" width="120" height="64" />
境内

<img alt="120px-Inside_of_Itsukushima_main_shrine.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Inside_of_Itsukushima_main_shrine.jpg" width="120" height="90" />　　<img alt="120px-ItsukushimaCorridor7445.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-ItsukushimaCorridor7445.jpg" width="120" height="80" />
内陣　　　　　　　　　　　　廻廊

<img alt="80px-ItsukushimaLanterns7416.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/80px-ItsukushimaLanterns7416.jpg" width="80" height="120" />　　<img alt="90px-Itsukushima2001-02.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/90px-Itsukushima2001-02.jpg" width="90" height="120" />　　<img alt="120px-ItsukushimaNobutai7442.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-ItsukushimaNobutai7442.jpg" width="120" height="77" />
廻廊　　　　　　　　五重の塔　　　　　　能舞台

■台風被害
非常に台風の影響を受けやすく台風が来るたびに何かしらの被害が出ている。特に大型の台風が直撃した際には倒壊などの被害を受けたりしている。

・1991年台風19号　重要文化財の「能舞台」が倒壊した。桧皮葺の屋根も大きな被害を受けた。
・1999年台風18号　 国宝の「神社」及び「社殿」が大きな被害を受けた。
・2004年台風18号　 国宝附指定の「左楽房」が倒壊した。桧皮葺の屋根も被害を受けた。
・最近は高潮被害も多い。

■他の厳島神社
当社から勧請を受けた「厳島神社」を名乗る神社が日本全国に存在する。

・厳島神社（北海道釧路市）
江戸時代後期、佐賀藩の佐野孫右エ門によって漁業安全、豊漁祈願のために分霊を勧請し創立された。大正2年5月に縣社になった。
・厳島神社（愛媛県今治市菊間町）
海員道の亀艦として厳島神社境内にある日支連絡船長崎丸の船長、菅源三郎の銅像で有名。昭和17年5月、長崎丸は、長崎港外で味方機雷にふれて沈没した。この事件の責任をとり事件後1週間、残務整理を行った上で、5月20日古武士のように自決した。
・厳島神社（宮崎県東臼杵郡椎葉村）
壇ノ浦の戦い（西暦1185年）を落ち延びた平家一門を追討するどころか、この地に屋敷（通称：鶴富屋　敷）を構えて、共に暮らすことを選んだ那須大八郎宗久が建立した。九州のほぼ中央にある山村に海　神を祭る社があること、そして、それが源氏一門による建立であることは、大変に興味深い。
・厳島神社（京都府京都市）
京都御苑(京都御所)内にも存在する。祭神は宮島の厳島神社の3神の他、平清盛の母の祇園女御も　合祀されている。当初は神戸にあったが、後に(天明以前)京都御苑内の九条家邸跡に移設。九条邸　の鎮守社であった。アクセスは地下鉄丸太町駅1番出口、徒歩5分。
・厳嶋神社（東京都新宿区）
・厳島神社（福島県会津若松市)

■アクセス
・最寄駅　JR山陽本線宮島口駅・広島電鉄宮島線広電宮島口駅
・駅から徒歩5分で宮島口桟橋。JR西日本宮島航路もしくは宮島松大汽船宮島航路にて宮島（宮島桟橋）まで約10分。
・駐車場：無し
車を利用して来るには、対岸のフェリー乗り場の駐車場に止めてからフェリーを利用する。
・別ルートとしては、広島港からのルートがある。

■外部リンク
・<a href="http://www.miyajima-wch.jp/">宮島観光公式サイト</a>
・<a href="http://www.miyajima.or.jp/">宮島観光協会ホームページ</a>

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   <title>原爆ドーム</title>
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   <published>2008-02-06T03:38:50Z</published>
   <updated>2008-07-09T04:50:18Z</updated>
   
   <summary>広島の世界遺産</summary>
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      <name>大地</name>
      
   </author>
         <category term="日本の世界遺産" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="78" label="原子爆弾" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="79" label="被爆" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
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■<strong>原爆ドーム</strong>（げんばくドーム）
・登録区分　文化遺産
・登録年　　 1996年

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原爆ドーム

■概要
現在、「原爆ドーム」の名称で知られているこの廃墟は、元来は地上3階・地下1階の煉瓦造りの構造の中央に、地上5階建て・高さ25mのドーム部がある建造物であった。

1915年4月5日に竣工、同年8月5日、広島県物産陳列館として開館されたものである。同館はチェコ人の建築家ヤン・レッツェル（Jan Letzel・1880年〜1925年）によって設計されネオ・バロック的な骨格にゼツェッション風の細部装飾を持つ混成様式の建物であった。

<img alt="300px-Genbaku_Dome_1.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/300px-Genbaku_Dome_1.jpg" width="300" height="192" />
広島県商品陳列館（1921〜33年頃）

その後、1921年に広島県商品陳列所となり同年には第4回全国菓子飴大品評会の会場にもなった。1933年には広島県産業奨励館に改称され、この前後は盛んに美術展が開催され広島における美術の普及に大きく貢献した。しかし、1944年以後、産業奨励館はその業務を停止し内務省中国四国土木事務所・広島県地方木材株式会社・日本木材広島支社など、行政機関・統制組合の事務所として使用されていた。

■位置
住所は広島県広島市中区大手町1丁目10。すぐ西には、原子爆弾投下の目標になったとも言われるT字型の相生橋が架かり、南には元安川を挟んで広島平和記念公園（通称、平和記念公園もしくは平和公園）が広がっている。北には市内電車（広島電鉄）の走る相生通りを挟んで広島市民球場がある。東に約200m行った所に爆心地とされる島外科（島病院）がある。

公共交通機関を使って訪れる場合、市内電車の最寄電停は「原爆ドーム前」であるが、バスの場合は「市民球場前」バス停となるので注意が必要である原爆ドームと相生通りを挟んだ向かい側に広島市民球場がある。

■地図

<img alt="270px-LocMap_of_WH_Genbaku_Dome.png" src="http://www.tokutoku21.net/270px-LocMap_of_WH_Genbaku_Dome.png" width="270" height="291" />


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      <![CDATA[■被爆時の状況
1945年8月6日午前8時15分（投下が15分で、爆発は16分とも言われている）、原爆ドームの南東上空約600mの地点で原子爆弾（リトルボーイ）が炸裂した。原爆炸裂後、建物は0.2秒で凄まじい熱線で包まれ0.8秒後衝撃波に近い猛烈な爆風が襲い、1秒もかからない内に瞬間的に崩壊したと推定される。

3階建ての本体部分はほぼ全壊したが、中央のドーム部分は全壊を免れ外壁を中心に残存した。その理由として、衝撃波を受けた方向がほぼ真上からだった。窓が多かったことにより､爆風が窓から吹き抜けた。本体部分の屋根は真上からの衝撃により押し潰されたが､ドーム部分は屋根が鉄よりも融点の低い銅板であったため、爆風到達前の熱線で融解し爆風が通過し崩壊しなかった。以上のような理由により､ドーム部分は全体が押し潰される程の衝撃が加わらなかったと考えられている。

建物内にいた職員など約30名は熱線と爆風で全員即死したと推定される｡尚、前夜宿直に当たっていた県地方木材会社の4名のうち1名は、被爆直前の8時前後に産業奨励館から自転車で帰宅し、唯一の生存者となった。その後しばらくはまだ窓枠などが炎上せずに残っていたものの、やがて可燃物に火がつき産業奨励館は全焼しついに煉瓦や鉄骨などを残すだけとなった。

■保存
原爆ドームは原子爆弾の惨禍を示すシンボルとして知られるようになったが、一方では「悲惨な戦争を思い出すので撤去すべき」などの意見もあり、その存廃が議論されてきた。広島市は経済的に負担が掛かるなどの理由で原爆ドーム保存には消極的だった。
しかし、1960年に被爆が原因と見られる急性白血病で亡くなった1人の女子高校生が「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう」と記した日記を読み感動した平和運動家の河本一郎氏が中心となって保存を求める運動が始まり、1966年広島市議会が永久保存することを決議、その後風化を防ぐため定期的に補修工事が行われながら保存されている。
1995年史跡に指定され、さらに翌1996年12月5日にはユネスコの世界遺産（文化遺産）への登録が決定された。最近では立ち入り禁止区域に入っての落書きなども問題になっている。

<img alt="250px-HiroshimaGembakuDome6819.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/250px-HiroshimaGembakuDome6819.jpg" width="250" height="167" />
遠景（相生橋より）

<img alt="200px-Genbaku_Dome_Closeup_%2528Nestor%2529_8.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/200px-Genbaku_Dome_Closeup_%2528Nestor%2529_8.jpg" width="200" height="266" />
近景

また、2004年以降、原爆ドームの保存方針を検討する「平和記念施設あり方懇談会」が開催され、博物館に移設する、屋根をつける、などの議論も出たが、2006年に今後も原状のまま保存する方針が確認された。

■世界遺産への登録
原爆ドームの登録審議は、1996年に開催された世界遺産審査委員会で行われた。このときアメリカ合衆国は原爆ドームの登録に強く反対。調査報告書から、世界で初めて使用された核兵器との文字を削除させた。また、中華人民共和国も日本の戦争への反省が足りないとして棄権に回った。

■問題
・保存
破壊された当時の形を保ったままの保存という特徴を持つ建造物である（但し、崩落や落下の危険性のある箇所は保存工事の際に取り除かれている）。定期的な保存作業が行われてはいるものの、年々風化が進んでいる箇所も確認されており保存に非常に困難な面がある事は否めない。

また地震の多い日本の地理的特徴の点から、大型地震に対しての耐震性を考慮した保存工事が行われてはいる。しかし、あくまでも理論上の数値に基づいての耐震工事しか行われておらず、地震による崩落の危険性を常に抱えている。2001年3月24日に平成13年（2001年）芸予地震で広島市が震度5強の揺れに遭遇したが、この時は目立った被害はなかった。

・危機遺産への登録問題
2006年、周辺の緩衝地帯で高層マンション建設が進んでいることが発覚。周辺の景観が破壊され、同様の景観問題を抱えていたケルン大聖堂のように危機遺産へ登録されてしまうのではないかと心配されている（ケルン大聖堂の危機遺産リスト登録は2006年をもって解除）。しかし、原爆ドームは”負の世界遺産”であり、原爆ドームの存在が都市の発展を阻害するのはむしろ本末転倒ではないかという声もある。

<img alt="250px-HiroshimaGembakuDome200701.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/250px-HiroshimaGembakuDome200701.jpg" width="250" height="188" />
原爆ドームと周辺マンション

・広島電鉄の沿線案内を巡る出来事
2007年7月28日の報道によると、広島市内で路面電車を運営する広島電鉄が、同社の電車内に原爆ドームと厳島神社を並べて紹介した沿線案内を掲示し、”広島が誇る世界遺産”として紹介したところ、利用者や被爆者から抗議が複数件寄せられ撤去していたことが判明した。同社では「原爆の惨禍を後世に伝えているという点で”誇り”という趣旨だったが誤解を招く表現だった」と釈明している。被爆者からは、「同じ世界遺産といっても、原爆ドームと厳島神社とでは質が違っており一括りに”誇り”として表現するのは乱暴」との批判が出ている。

<img alt="250px-HiroshimaPeacePark050109.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/250px-HiroshimaPeacePark050109.jpg" width="250" height="375" />
慰霊碑より原爆ドームを臨む

■外部リンク
・<a href="http://www.city.hiroshima.jp/www/toppage/0000000000000/APM03000.html">広島市ホームページ</a>
・<a href="http://www.pcf.city.hiroshima.jp/">広島平和記念資料館</a>

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   <title>白川郷・五箇山の合掌造り集落</title>
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   <published>2008-01-15T03:35:54Z</published>
   <updated>2008-07-09T04:50:18Z</updated>
   
   <summary>白川郷・五箇山の世界遺産</summary>
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   <category term="43" label="五箇山" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="40" label="合掌造り" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="41" label="白川郷" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
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■<strong>白川郷・五箇山</strong>の合掌造り集落
（しらかわごう・ごかやまのがっしょうづくりしゅうらく）
・登録区分　文化遺産
・登録年　　 1995年

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合掌造りの家屋

■概要
合掌造りは、江戸時代から始められた養蚕のため屋根裏に棚を設置したのが始まりと言われている。豪雪による雪下ろしの作業軽減と屋根裏の床面積拡大のため、急な角度を持っているユニークな茅葺屋根になったと考えられている。

また、合掌造りの屋根はどの家屋も東西を向いている。これは、屋根に満遍なく日が当たるようにするため集落が南北に細長い谷にあり、南北それぞれの方向から強い風が吹くので風を受ける面積を少なくするためと言われている。

合掌造りを守る地域住民の連携形式の「結（ゆい）」により、補修や茅葺の葺き替えが30年〜40年に一度は行われている。屋根の葺き替えには、多くの人手と時間（全て葺き替えるのに二日間はかかる）を要する。

白川郷と五箇山の集落地帯は、有数の豪雪地帯であることによって周囲との道路整備が遅れたため、奇跡的に合掌造りの住居構造が残った。しかし、過疎化や住民の高齢化により、「結（ゆい）」の活動による合掌造りの維持活動も限界となっている。

世界遺産登録後急激に観光客が増加している。近くを走っている高速道路（東海北陸自動車道）の全面開通も2008年に迫っており、地域社会の生活と観光地化の狭間で様々な問題も発生している。

「白川郷」や「五箇山」と言われているのだが、細かく言うと白川郷の「荻町」と、五箇山の「相倉」、「菅沼」の三つの集落がある。荻町は1976年に、相倉と菅沼は1994年に重要伝統的建造物群保存地区に選ばれている。

■地図

<img alt="300px-LocMap_of_WH_Shirakawa_and_Gokayama.png" src="http://www.tokutoku21.net/300px-LocMap_of_WH_Shirakawa_and_Gokayama.png" width="300" height="225" />


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      <![CDATA[■画像

<img alt="120px-Shirakawago_Japanese_Old_Village_001.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Shirakawago_Japanese_Old_Village_001.jpg" width="120" height="90" />　　　<img alt="120px-Shirakawago_Japanese_Old_Village_006.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Shirakawago_Japanese_Old_Village_006.jpg" width="120" height="90" />　　　<img alt="90px-Shirakawago_Japanese_Old_Village_005.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/90px-Shirakawago_Japanese_Old_Village_005.jpg" width="90" height="120" />
秋の白川郷　　　　　　　　秋の白川郷（明善寺）　　秋の白川郷（和田家）


<img alt="120px-SHIRAKAWA_GOU.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-SHIRAKAWA_GOU.jpg" width="120" height="90" />　　　<img alt="120px-Shirakawa-g%25C5%258D_and_Gokayama_2007.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Shirakawa-g%25C5%258D_and_Gokayama_2007.jpg" width="120" height="90" />　　　<img alt="120px-Shirakawago_Japanese_Old_Village_004.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Shirakawago_Japanese_Old_Village_004.jpg" width="120" height="90" />
白川郷の合掌集落　　　夏の白川郷（神田家より）　秋の白川郷


<img alt="120px-Gokayama_Japanese_Old_Village_001.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/images/120px-Gokayama_Japanese_Old_Village_001.jpg" width="120" height="90" />　　　<img alt="120px-Gokayama_Japanese_Old_Village_002.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Gokayama_Japanese_Old_Village_002.jpg" width="120" height="90" />　　　<img alt="120px-Shirakawago_Japanese_Old_Village_002.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Shirakawago_Japanese_Old_Village_002.jpg" width="120" height="90" />
冬の五箇山　　　　　　　　冬の五箇山　　　　　　　　冬の白川郷


<img alt="120px-%25E5%2590%2588%25E6%258E%258C%25E9%2580%25A0%25E3%2582%258A%25E5%25AE%25B6%25E5%25B1%258B3%25E9%259A%258E.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-%25E5%2590%2588%25E6%258E%258C%25E9%2580%25A0%25E3%2582%258A%25E5%25AE%25B6%25E5%25B1%258B3%25E9%259A%258E.jpg" width="120" height="90" />　　　<img alt="120px-Shirakawago_Fireplace_001.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Shirakawago_Fireplace_001.jpg" width="120" height="90" />　　　<img alt="80px-Shirakawa-goFireplace.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/80px-Shirakawa-goFireplace.jpg" width="80" height="120" />
合掌造りの三階内部　　　白川郷（明善寺）　　　　白川郷（和田家）


■外部リンク
・<a href="http://www.vill.shirakawa.gifu.jp/index.html">世界遺産ひだ白川郷</a>
・<a href="http://www.g-ainokura.com/index.html">相倉合掌造り保存財団</a>
・<a href="http://www.gokayama.jp/index2.html">五箇山〜小さな世界遺産の村</a>
・<a href="http://www4.ocn.ne.jp/~gassyou/index.html">五箇山・白川郷の合掌造り</a>
・<a href="http://www.shirakawago-p.org/">白川郷駐車場予約優先システム</a>

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   <title>古都京都の文化財</title>
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   <published>2008-01-05T03:35:06Z</published>
   <updated>2008-07-09T04:50:21Z</updated>
   
   <summary>京都の世界遺産</summary>
   <author>
      <name>大地</name>
      
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   <category term="36" label="京都" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="39" label="寺" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="38" label="神社" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
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■<strong>古都京都</strong>の文化財（こときょうとのぶんかざい）
・登録区分　文化遺産
・登録年　　 1994年

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鹿苑寺舎利殿（金閣）

■概要
古都京都の文化財は、京都府京都市・宇治市、滋賀県大津市に存在する寺院等の総称。1994年にユネスコの世界遺産（文化遺産）として登録された。

京都は8世紀から17世紀の間、宗教・非宗教建築と庭園設計の進化にとって主要中心地であった。そのように、京都は日本の文化的伝統の創出において決定的な役割を果たし、特に庭園の場合においては19世紀以降世界の他の地域において意義深い影響を与えた。

京都の現存文化財における建築と庭園設計の集積は前近代における日本の物質文化のこの側面に関する最高の表現である。

■拡大登録計画
登録当時から時間が経過し周辺環境や景観の悪化が進行しつつあるため、京都市を中心に遺産の追加登録計画が持ち上がっている。具体的には、知恩院・大徳寺・永観堂禅林寺が登録に前向きの姿勢を示している。

そして、京都市が京都御所・嵯峨嵐山一帯の追加登録を目指している。また東山一帯・桂離宮・修学院離宮についても検討している。

■世界遺産
・賀茂別雷神社（上賀茂神社）
・賀茂御祖神社（下鴨神社）
・教王護国寺（東寺）
・清水寺
・延暦寺
・醍醐寺
・仁和寺
・平等院
・宇治上神社
・高山寺
・西芳寺（苔寺）
・天龍寺
・鹿苑寺（金閣寺）
・慈照寺（銀閣寺）
・龍安寺
・西本願寺
・二条城

■地図

<img alt="270px-LocMap_of_WH_Ancient_Kyoto.png" src="http://www.tokutoku21.net/270px-LocMap_of_WH_Ancient_Kyoto.png" width="270" height="265" />

■外部リンク
・<a href="http://www.city.kyoto.lg.jp/">京都市情報館</a>


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      <![CDATA[■<strong>賀茂別雷神社（上賀茂神社）</strong>
・所在地　京都府京都市北区上賀茂本山339
・主祭神　賀茂別雷大神
・創建　　 伝天武天皇7年（678年）

賀茂別雷神社（かもわけいかづちじんじゃ）は、京都市北区にある神社である。通称上賀茂神社（かみがもじんじゃ）。式内社、山城国一宮、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。

賀茂御祖神社（下鴨神社）とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社（賀茂社）と総称される。賀茂神社両社の祭事である葵祭で有名である。

賀茂氏の祖神である賀茂別雷命（かもわけみかづちのみこと）を祀る。「別雷」は「若雷」の意味で、若々しい力に満ちた雷（神鳴り）の神という意味である。

<img alt="250px-KamigamoJinjya_Saiden.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/250px-KamigamoJinjya_Saiden.jpg" width="250" height="188" />
細殿と立砂

・歴史
創建については諸説ある。社伝では、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。『山城国風土記』逸文では、玉依日売（たまよりひめ）が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古（あにたまよりひこ）の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られている。

国史では、文武天皇2年（698年）3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出で、他にも天平勝宝2年（750年）に御戸代田一町が寄進されるなど、朝廷からの崇敬を受けてきたことがわかる。794年の平安遷都の後は王城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年（807年）には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。延喜式神名帳では名神大社に列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年（810年）以降約400年にわたって、伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。

明治の社格制度でも、官幣大社の筆頭という、伊勢神宮の次位の神社とされ、明治16年には勅祭社に定められた。

・アクセス
最寄駅・・・京都市営地下鉄 北山駅
京都市営バス・・・上賀茂御園橋（賀茂川対岸）、上賀茂神社前（神社敷地内、同地には市バスの操　車　場が有る）
京都バス・・・上賀茂神社前
駐車場・・・有り

・外部リンク
<a href="http://www.kamigamojinja.jp/">上賀茂神社（公式サイト）</a>
　 

■<strong>賀茂御祖神社（下鴨神社）</strong>
・所在地　京都府京都市左京区下鴨泉川町59
・主祭神　玉依姫命　賀茂建角身命

賀茂御祖神社（かもみおやじんじゃ）は、京都市左京区にある神社である。通称下鴨神社（しもがもじんじゃ）。式内社、山城国一宮、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。

賀茂別雷神社（上賀茂神社）とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社（賀茂社）と総称され、両社をもって一社のような扱いをされてきた。賀茂神社両社の祭事である葵祭で有名である。

上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の母の玉依姫命および玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀ることから「賀茂御祖神社」と呼ばれる。八咫烏は賀茂建角身命の化身である。

<img alt="250px-%25E4%25B8%258B%25E9%25B4%25A8%25E7%25A5%259E%25E7%25A4%25BE01.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/250px-%25E4%25B8%258B%25E9%25B4%25A8%25E7%25A5%259E%25E7%25A4%25BE01.jpg" width="250" height="188" />
楼門・楼門廻廊

・歴史
社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したと伝える。一説には、天平のころに上賀茂神社から分置されたとされる。上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けた。平安遷都の後はより一層の崇敬を受けるようになり、大同2年（807年）には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。延喜式神名帳では名神大社に列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年（810年）以降約400年にわたり、斎院が置かれ皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。

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下鴨神社参道　糺（ただす）の森

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御手洗社

<img alt="220px-Chozubachi.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/220px-Chozubachi.jpg" width="220" height="165" />
御手洗社の手洗場

<img alt="220px-Kyoto_shimogamo_book_market.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/220px-Kyoto_shimogamo_book_market.jpg" width="220" height="165" />
8月に開催される古本市

<img alt="220px-Shimogamo_Jinja_no_Torii.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/220px-Shimogamo_Jinja_no_Torii.jpg" width="220" height="165" />
河合神社

・アクセス
最寄駅・・・京阪電気鉄道出町柳駅
駐車場・・・有り

・外部リンク
<a href="http://www.shimogamo-jinja.or.jp/">下鴨神社（公式サイト）</a>


■<strong>教王護国寺（東寺）</strong>
・所在地　京都府京都市南区九条町1
・宗派　　 東寺真言宗総本山
・本尊　　 薬師如来（重要文化財）
・創建年　延暦15年（796年）
・開基　　 官立（桓武天皇）

東寺（とうじ）は空海（弘法大師）ゆかりの寺院である。宗派は東寺真言宗総本山。山号は八幡山、本尊は薬師如来である。「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録された。

東寺の正式名として金光明四天王教王護国寺秘密伝法院と弥勒八幡山総持普賢院の2つの名称がある。

宗教法人としての公称は教王護国寺（きょうおうごこくじ、詳名は金光明四天王教王護国寺秘密伝法院）。

<img alt="260px-Toji-temple-kyoto.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/260px-Toji-temple-kyoto.jpg" width="260" height="347" />
五重塔（国宝）

・概要
8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」（さいじ）という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。

このうち東寺は後に弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門、金堂、講堂、食堂（じきどう）が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。

なお、羅城門を挟んで対称的な位置にあった西寺は早い時期に衰退し、現在は京都市南区唐橋の児童公園内に「史跡西寺跡」の碑があり、付近に「西寺」の寺名のみを継いだ小寺院が残るのみである。

・歴史
『東宝記』（南北朝時代に成立した、東寺の記録書）の記載によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年（796年）、藤原伊勢人という人物が造寺長官（建設工事責任者）となって建立したという。藤原伊勢人という人物については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの796年を創建の年としている。それから20数年後の弘仁14年（823年）、真言宗の宗祖である空海は、嵯峨天皇から東寺を賜った。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。

弘法大師空海（774年−835年）は、讃岐国（香川県）出身の僧。真言宗の開祖であり、東寺と高野山（金剛峯寺）の基礎を築いた実在の人物であるが、後世には空海自身が「お大師様」として信仰の対象となり、なかば伝説化された存在となっている。30歳頃までの青年期には奈良の寺々で学問にはげみ、山林に分け入って修行していた無名の僧であった空海は、延暦23年（804年）、留学生（るがくしょう）として唐に渡った。彼は当時の唐の都・長安（現・西安）で青竜寺の恵果和尚に師事し、密教の奥義の伝授を受け、2年後の大同元年（806年）に帰国した。空海が、若い頃に修行したことのある高野山を下賜されたのは弘仁7年（816年）のことであり、その7年後の弘仁14年（823年）に東寺を下賜されている。

東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院（1181年〜1252年）であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。また、「生身供」（しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式）や「御影供」（みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う）などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海（弘法大師）が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。

中世以後の東寺は後宇多天皇、後醍醐天皇、足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明18年（1486年）の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家、徳川家などの援助により、金堂、五重塔などが再建されている。

・「東寺」と「教王護国寺」
この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称があり、百科事典等でも「東寺」を見出し語とするものと「教王護国寺」を見出し語とするものがある。「教王」とは「王を教化する」との意味であり、「教王護国寺」という名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められている。宗教法人としての公称は「教王護国寺」であり、たとえば、五重塔の国宝指定官報告示の際の指定名称は「教王護国寺五重塔」となっている。そうした観点からは、近代以降の法人名としては「教王護国寺」が正式名称であるといえる。ただし、「東寺」という名称も単なる通称・俗称ではなく、創建当時から使用されてきた歴史的名称である。現代においても、南大門前の石柱には「真言宗総本山　東寺」とあり、南大門、北大門、慶賀門などに掲げられた寺名入りの提灯には「東寺」とあり、宝物館の名称を「東寺宝物館」とするなど、寺側でも通常は「東寺」の呼称を使用している。

平安時代以降近世まで、公式の文書、記録等には原則として「東寺」という表記が用いられ、それが正式名称であり、「教王護国寺」という呼称は特殊な場合以外には用いられなかった。「教王護国寺」という名称は平安時代の記録類には一切見えず、正式の文書におけるこの寺号の初出は仁治元年（1240年）である。後宇多天皇宸翰の国宝「東寺興隆条々事書」（延慶8年＝1308年）、後宇多天皇宸翰「庄園敷地施入状」、豊臣秀吉が2,030石の知行を認めた天正19年（1591年）の朱印状など、寺の歴史に関わる最重要文書にも明確に「東寺」と表記されている。

・伽藍
金堂（国宝）
現存の建物は慶長8年（1603年）、豊臣秀頼の寄進によって再建したもの。内部には広大な空間の中に本尊の薬師三尊像が安置されている。中尊の像高2.9メートルに達する巨像で、日本の仏教彫刻衰退期である桃山時代における佳作である。

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東寺金堂

講堂（重文）
室町時代の延徳3年（1491年）の再建。金堂が顕教系の薬師如来を本尊とするのに対し、講堂には大日如来をはじめとする21体の密教彫像が所狭しと安置されている。これらは、日本最古の本格的な密教彫像である。講堂の諸仏は空海没後の承和6年（839年）に完成しているが、全体の構想は空海によるものである。堂内中央には五仏（五智如来）、堂内向かって右（東方）には五大菩薩、向かって左（西方）には五大明王を安置するほか、堂内の東西端には梵天・帝釈天像、壇上四隅には四天王像を安置する。これら21体の仏像のうち、五仏のすべてと五大菩薩の中尊像は後世の補作に代わっており、残りの15体が国宝に指定されている（五仏は重要文化財に指定）。

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東寺講堂

食堂（じきどう）
空海没後、9世紀末から10世紀初めにかけて完成した。1930年（昭和5年）の火災で焼失し、現在の建物はその後の再建。本尊の千手観音立像は火災で焼損したが、1960年代に修理され、現在は寺内の宝物館に安置されている。

五重塔（国宝）
東寺のというよりは京都のシンボルとなっている塔である。高さ54.8メートルで木造塔としては日本一の高さを誇る。現在の塔は5代目で、寛永21年（1644年）、徳川家光の寄進で建てられた。創建は空海没後の9世紀末であった。

御影堂（国宝）
南北朝時代に建てられた住宅風の仏堂である。国宝指定の名称は「大師堂」だが、一般には御影堂と呼ばれている。この堂のある一画を「西院」といい、空海の住房跡とされている。康暦元年（1379年）の火災による焼失後、その翌年に再建されたのが現存の建物である。ただし、堂の北半分は弘法大師像を安置するために明徳元年（1390年）に増築されたものである。堂の南側には空海の念持仏とされる不動明王坐像（国宝、9世紀）を安置する。厳重な秘仏で非公開であるが、日本の不動明王像としては最古の作例の1つである。堂の北側には弘法大師坐像（国宝）を安置する。この像は天福元年（1233年）運慶の4男康勝が制作したものである。この像は庶民の信仰を広く集めており、像の前では、毎朝6時に「お大師様」に朝食を捧げる「生身供」（しょうじんく）が執り行われ、多くの参拝者が集まる。

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大師堂

観智院客殿（国宝）
慶長11年（1606年）の建立。

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観智院

灌頂院（重文）
伝法灌頂（密教の奥義を師匠から弟子へ伝える儀式）、後七日御修法（ごしちにちのみしほ：正月の8日から14日までの間に、天皇の安泰を祈願する儀式）などの儀式を執り行うための堂で、内部には仏像は安置されていない。

宝蔵（重文）
平安後期建立の校倉（あぜくら）造倉庫。東寺最古の建造物。

八幡宮
1868年（明治元年）に焼失後、1世紀以上を経た1992年（平成4年）に再建。東寺の鎮守神である僧形八幡神像と女神（じょしん）像2体を安置する。

南大門（重文）
1895年（明治28年）、三十三間堂の西門を移築したもの。九条通り（九条大路）に面しており、京阪国道口交差点から東へ約100mの場所にある。

小子房
1934年（昭和9年）に再建されたもの。内部は6個の部屋（鷲の間、雛鶏の間、勅使の間、牡丹の間、瓜の間、枇杷の間）からなる。各部屋の障壁画は堂本印象により描かれた。小子房の西の門は蓮華門と呼ばれ国宝である。

なお、東寺境内に接して洛南高等学校・附属中学校がある。 また、東方に東寺執行職（しぎょうしょく）を世襲した空海の母方の実家でもある、阿刀氏が奉祀する石上神社があり、物部氏の氏神石上神宮との関係から、物部氏の神道に於ける呪術性（例：十種神宝の呪術）が、東寺密教に影響を与えた可能性も考えられる。

・弘法市
毎月21日は弘法大師にちなみ「弘法市」が開かれ、縁日が並ぶ。この市は俗に「弘法さん」と呼ばれて親しまれている。特に師走21日の「終い弘法」には、多くの人々が詰めかける。

・外部リンク
<a href="http://www.touji-ennichi.com/">弘法市〜東寺縁日</a>


■<strong>清水寺</strong>
・所在地　京都府京都市東山区清水1-294
・宗派　　 北法相宗大本山
・本尊　　 千手観音（秘仏）
・創建年　宝亀9年（778年）
・開基　　 延鎮

清水寺（きよみずでら）は、京都府京都市東山区清水にある寺院。山号を音羽山と称する。本尊は千手観音、開基（創立者）は延鎮上人である。宗派はもと法相宗に属したが現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。

清水寺は、金閣寺（鹿苑寺）、嵐山などと並ぶ、京都でも指折りの観光名所で、季節を問わず多くの参詣人で賑わっている。また、石山寺（滋賀県大津市）、長谷寺（奈良県桜井市）などと並び、日本でも有数の観音霊場として古くから知られ、平安時代以来、文学作品などにもたびたび登場する著名寺院である。西国三十三箇所観音霊場の第16番札所であり、古都京都の文化財の一部として世界遺産にも登録された。

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本堂と舞台（国宝）

・起源と歴史
広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。清水寺の縁起はさまざまな伝本があり、『今昔物語集』『扶桑略記』などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば草創縁起は大略次のとおりである。宝亀9年（778年）、大和国子島寺（奈良県高市郡高取町に現存）の僧・延鎮上人が、夢のお告げで霊泉を訪ねてたどりついたのが、今、清水寺の建つ音羽山であった。そこにはこの山に篭って数百年も修行を続けているという行叡居士（ぎょうえいこじ）という修行者（観音の化身ともいう）がいた。行叡は「自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。延鎮は、行叡居士が残していった霊木に観音像を刻み、草庵に安置した。これが清水寺のはじまりという。

その2年後の宝亀11年（780年）、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂（758〜811）は、修行中の延鎮に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となった田村麻呂は、観音の加護の賜物か、無事東国の蝦夷を平定し、都に帰ることができた。延暦17年（798年）、延鎮と田村麻呂は協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀ったという。

 以上の話には細かい点については異伝もある。創建の年については宝亀11年（780年）でなく延暦17年（798年）とする場合もあり、延鎮が最初に分け入ったのは木津川の上流の山で、平城京遷都に際して今の音羽山に移ったとする話もある。これらの話は、根拠のない伝説として無視すべきではなく、何らかの史実をもとにしていると思われ、その根幹には日本古来の山岳信仰、水源信仰があると思われる。

延暦24年（805年）に坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年（810年）、嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となったことは史実とされ、この頃に本格的な寺観が整ったようである。

清水寺は『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』、『梁塵秘抄』などの古典文学に言及されている。『枕草子』は、「さはがしきもの」の例として清水寺の縁日の日を挙げており、平安時代、既に多くの参詣者を集めていたことが伺われる。近世には浄瑠璃、歌舞伎などにも清水寺が登場する。

清水寺は、京都では珍しい法相宗（南都六宗の1つ）寺院で、長らく興福寺の支配下にあった。本堂をはじめとする伽藍はたびたび火災にあっており、現在の本堂は寛永10年（1633年）、徳川家光の寄進による再建である。他の諸堂も多くはこの年に再建されている。

・境内
東大路通から清水寺までの約1キロの坂道は清水坂と称され、道の両側には観光客向けのみやげ物店などが軒を連ねている。境内は標高242メートルの清水山（音羽山）中腹に石垣を築いて整地され、多くの建物が軒を接するように建ち並んでいる。入口の仁王門を過ぎ、西門、三重塔、鐘楼、経堂、田村堂（開山堂）、朝倉堂などを経て本堂に至る。本堂の先、境内の東側には北から釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院が崖に面して建つ。本堂東側の石段を下りた先には寺名の由来でもある名水が3本の筧（かけい）から流れ落ちており、「音羽の滝」と呼ばれている。音羽の滝からさらに南へ進むと、「錦雲渓」と呼ばれる谷を越えた先に塔頭寺院の泰産寺があり、「子安塔」と呼ばれる小さな三重塔がある。このほか、本堂の北に鎮守社の地主神社（じしゅじんじゃ）があり、さらに北には清水寺本坊の成就院がある。

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音羽の滝

本堂（国宝）
徳川家光の寄進により寛永10年（1633年）に再建されたもの。「清水の舞台」で知られる建物である。屋根は寄棟造、檜皮葺きで、正面（南面）左右に入母屋造の翼廊が突き出し、外観に変化を与えている。建物の前半部分は山の斜面にせり出すようにして建てられ、多くの長大な柱（139本という）が「舞台」と呼ばれるせり出し部分を支えている。このような構造を「懸造」（かけづくり）、あるいは「舞台造」と言い、観音菩薩は補陀洛山（ふだらくさん）に現われるという「観音経」の所説に基づくものである。観音霊場として名高い長谷寺や石山寺の本堂が同様の「懸造」である点も注意される。

内陣には、秘仏本尊の千手観音、毘沙門天、地蔵菩薩をそれぞれ安置する3基の厨子が置かれ、本尊厨子の周囲には千手観音の眷属である二十八部衆と風神・雷神像が安置される。本尊の千手観音立像は、42本の手のうち、2本を頭上で組み合わせる特殊な形の像であり、33年に1度開扉の秘仏である（2000年3月3日から同年12月3日まで開扉された）。

思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と言うが、ある調査によれば、実際に飛び降りた人が1694年〜1864年の間に234件（未遂を含む。記録のあるものだけ。清水寺に残る古文書「成就院日記」には記録が抜けている時期があり、記録が残っている148年分の合計。年間発生件数が同程度だとすると江戸時代全体では424人と推定される。・・・らしい。）に上り、生存率は85.4パーセントと意外に高かったという。観音の住むという補陀洛浄土へ旅立とうとして飛び降りた者が多かったと見られる。

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春の本堂と舞台（清水の舞台）

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奥の院
本堂の全貌を見渡すことができる位置に建つ。本堂より小規模ながら、崖にせり出した懸造の建物である。本堂と同様に千手観音、毘沙門天、地蔵菩薩、二十八部衆、風神・雷神の諸仏を安置する（ただし本尊は立像でなく坐像）。本尊の秘仏千手観音坐像（重文）は、鎌倉時代の作で像高69センチ。正面・右・左の3つの顔をもち、頭上に25の小面を乗せた特異な形の像で、2002年に重要文化財に指定されている。本像は2003年3月7日〜12月7日まで開帳された（寺によれば243年ぶりの開帳という）。

成就院
境内北方にある、清水寺の本坊。池泉回遊式庭園は国の名勝に指定されている。秋季などに行われる特別公開の時期を除き、通常は非公開である。なお、内部での撮影は原則として禁止となっている。

地主神社
本堂の北にある、清水寺の鎮守社で縁結びの神として信仰を集めている。本殿、拝殿、総門は清水寺本堂と同じく寛永10年（1633年）の再建である。ちなみに清水寺・仁王門前にあり、しばしば「なぜお寺の入り口にあるのか」と参拝者に不思議がられる狛犬は地主神社のものである。

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三重塔

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三重塔のシルエット

・その他
清水寺貫主の故大西良慶が、本寺を法相宗から独立させ北法相宗を設立した。大西は晩年には日本最高齢者となったこともあり、日本初の五つ子の名付け親としても有名であった。

バブル期より毎年12月12日（漢字の日、ただし事情によりずれる場合もある）に、関西の大手電気機器製造メーカーと縁の深い財団法人日本漢字能力検定協会主催によりその年の世相を漢字一字で表現する「今年の漢字」が清水寺で発表される。

古都税問題では、その財力をパックにして「拝観禁止」の強行手段に訴え世間の糾弾を浴びたが同一戦線の仲間を置き去りにして撤回するなど見通しが悪い面もある。

スイスの財団が実施している「新・世界七不思議」を選ぶ取り組みで、京都市東山区の清水寺が日本で唯一、中国の万里の長城やフランスのエッフェル塔などとともに最終候補地に選ばれ、それを記念して財団から賞状を受けた。

世界の驚異的な物件を決める現代版新・世界七不思議の候補地の一つにノミネートされインターネットと電話による投票が行われていたが、2007年7月7日にリスボンで発表された最終結果では落選した。

坂上田村麻呂のゆかりからアテルイとモレを慰霊する石碑（1994年建立）がある。

・アクセス
京都市営バス「清水道」及び京阪バス「五条坂」停留所下車徒歩約14分

・外部サイト
<a href="http://www.kiyomizudera.or.jp/">清水寺公式ホームページ </a>
<a href="http://www.jishujinja.or.jp/">地主神社公式ページ </a>


■延暦寺
■醍醐寺
■仁和寺
■平等院
■宇治上神社
■高山寺
■西芳寺（苔寺）
■天龍寺
■鹿苑寺（金閣寺）
■慈照寺（銀閣寺）
■龍安寺
■西本願寺
■二条城

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   <title>姫路城</title>
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   <published>2008-01-04T16:01:24Z</published>
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   <summary>姫路の世界遺産</summary>
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      <name>大地</name>
      
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■<strong>姫路城</strong>（ひめじじょう）
・登録区分　文化遺産
・登録年　　 1993年

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姫路城天守（西の丸・南西方面）より望む

■概要
今や全国に12箇所しか現存していない、江戸時代以前に建造された天守を有する城郭の一つである。（現存天守）

国宝四城（姫路城・松本城・彦根城・犬山城）の一つでもあり、築城以来の姿をよく残している事もあって、時に「天下の名城」あるいは「日本一の名城」と言われる。

築城以来廃城や戦火の危機を免れてきた事から天守をはじめ多くの建造物が現存し、うち大天守、小天守、渡櫓等8棟が国宝、74棟の各種建造物（櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟）が重要文化財に指定されている。また1993年、ユネスコの世界遺産（文化遺産）に登録されている。

姫路城の所在地「姫路市本町68番地」は、日本の番地では皇居の位置する「千代田区千代田1番地」に次ぐ面積を誇る。近代には陸軍歩兵第十連隊が駐屯していた。

白壁の美しい城であり、時代劇を始めとして映画などのロケが行われる事も多い。しばしば江戸城など他の城の代わりとして撮影されている。

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桜の季節の姫路城を南東より望む

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夕闇迫る姫路城を東から望む

■地図

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      <![CDATA[■歴史
山陽道上の交通の要所・姫路に置かれた姫路城には、江戸時代には池田輝政およびその子・孫以降は親藩松平氏や譜代大名が配置され、さらに西国の外様大名監視のために西国探題が設置された。

・室町時代・安土桃山時代
築城は南北朝時代、赤松則村（円心）が姫路山上に築いた称名寺をもとに、正平元年（1346年）の赤松貞範による築城説が有力である（築城者の項も参照のこと）。室町時代の嘉吉元年（1441年）の嘉吉の乱で赤松氏が没落すると、一時山名氏が入るが、応仁の乱の混乱の中赤松氏に奪還された。

16世紀前半、御着城（現在の姫路市御国野町御着）を中心とした赤松支族の小寺氏が播州平野に台頭、その被官であった黒田重隆が城代として姫路城に入った（この時期の築城説もある）。重隆によって居館程度の規模であった姫路城の修築がある程度行われ、姫山の地形を生かした中世城郭となったと考えられている（規模は現在残るものよりもはるかに小さい）。天正元年まで黒田氏が代々城代を勤め、重隆の子職隆、孫の孝高（官兵衛、如水）に伝えられた。ところが、天正4年（1576年）に織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国地方の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。ただし小寺氏の被官でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕える事となった。

天正8年（1580年）、黒田孝高は秀吉に居城であった姫路城を献上した。秀吉は大整備を行って姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、さらに天守（三層と伝えられる）を建築した。あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。この際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、姫路の城下町を通るようにも改めている。

天正10年（1582年）6月、秀吉は主君信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人への地位を駆け上っていく。このため翌天正11年（1583年）には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟の羽柴秀長（後の豊臣秀長）が入ったが天正13年（1585年）には大和郡山へと転封、替わって親族の木下家定が入った。

慶長5年（1601年）、家定は備中に2万5千石で転封、代わって池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功で52万石（播磨一国支配）で入城した。輝政によって8年掛かりに及ぶ大改修が行われ、広大な城郭が築かれる事となった。

・江戸時代
元和3年（1617年）、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、重要地を任せるには不安である事を理由に因幡鳥取へ転封させられ、伊勢桑名から本多忠政が15万石で入城した。元和4年（1618年）には千姫が本多忠刻に嫁いだのを機に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。

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姫路城鳥瞰図

要衝姫路の藩主は親藩および譜代大名が務めたが、本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家、再度越前松平家、再度本多家、再度榊原家、再々度越前松平家とめまぐるしく入れ替わる。寛延2年（1749年）上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。しかし、豪壮な姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職も相まって藩の経済を圧迫していた。

姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行われてきたが、当時の技術では天守の重量に礎石が耐えられず沈み込んでいくのを食い止める事は難しかった。加えて柱や梁などの変形も激しく、俗謡に『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』などと歌われるありさまであった。

幕末期、鳥羽・伏見の戦いにあって姫路城主酒井忠惇は老中として幕府方に属し将軍徳川慶喜と共にあったため、姫路藩も朝敵とされ姫路城は岡山藩と龍野藩の兵1,500人に包囲された。この時、輝政の子孫・池田茂政の率いる岡山藩の部隊が姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行っている。その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。官軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風正造が15万両に及ぶ私財を官軍に献上し、それを食い止めた。この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定、城明け渡しで官軍と和睦する。こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避され、後年の世界遺産は焼失を逃れた。

・明治時代
1871年（明治4年）に廃藩置県がおこなわれ、さらに1873年（明治6年）の廃城令によって日本の城の多くがもはや不要であるとして破却された。姫路城は競売に付され、城下の米田町に住む個人、神戸某が23円50銭で落札した。城の瓦を売るのが目的であったという。しかし、解体費用がかかりすぎるとの理由で結局そのままにされ、権利も消滅した。その後1927年（昭和2年）、その個人の息子が、姫路城の所有権を主張して訴訟を起こそうとしたと報じた新聞があったが、別の新聞が後日取材したところでは事実無根だという話であったという。

城跡は陣地として好適な場所であった事から、陸軍の部隊は城跡に配置される例が多かった。1874年（明治7年）には姫路城内に歩兵第十連隊が設置された。この際、本城などの三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊された。さらに1882年（明治15年）には失火で備前丸を焼失している。

一方で、明治時代初頭の大変革が一段落付いた1877年（明治10年）頃には、日本の城郭を保存しようという動きが見られるようになった。陸軍において建築・修繕を担当していた中村重遠（しげとお）大佐は、1878年（明治11年）に陸軍卿山縣有朋に名古屋城および姫路城の保存を太政官に上申するよう願い出て、ようやく姫路城の修復は第一歩を踏み出した。姫路城の菱の門内側には中村大佐の顕彰碑が残る。だが、肝心の予算はなかなか下りず、陸軍の予算からどうにか捻出された保存費は要求額の半分にも満たないものであった。これによってどうにか応急的な修理を施したもののなおも腐朽は進む一方であり、城下各地の有志達の衆議院への陳情によってようやく1910年（明治43年）、国費9万3千円が支給されて「明治の大修理」が行われた。これも天守の傾きを修正するには費用が足りず、傾きが進行するのを食い止めるに留まった。その後、1919年（大正8年）にも陸軍省が西の丸を修理している。後に第十連隊は岡山へ移転した。

・不戦の城
昭和の大修理について触れる前に、姫路城が「不戦の城」とも呼ばれる所以について記す。姫路城は幕末と太平洋戦争の二度の戦禍を免れた事から「不戦の城」と呼ばれる事がある。しかし、実際にはいずれにおいても戦火が間近に近づく危機にさらされている。幕末の危機は先に述べた通りである。

太平洋戦争にあって姫路城の白壁は非常に目立ち、又、陸軍の部隊が置かれていた姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網で城の主要な部分を覆い隠す事とした。しかし、1945年（昭和20年）7月3日の姫路大空襲で姫路城下は灰燼と帰する。城内にも着弾するが本城跡に有った中学校校舎のみが焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発だった（2006年7月23日付神戸新聞記事より。当時、不発弾処理にあたった元士官の証言で明らかになった）など、城本体は奇跡的に炎上を免れた（姫路城は貴重な文化財なので爆撃対象とはされなかったという俗説があるが、日本の他の都市の城郭、例えば名古屋城やドイツにおける無差別爆撃では歴史的建造物も容赦なく破壊されたことから、そのような考えはなかったとするのが一般的である。また、当時のB-29搭乗員は『レーダーから見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい』と回顧している）。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、城下の人々は涙したという。

・昭和の大修理
1928年（昭和3年）に姫路城は史跡指定され、文部省の管理となる（実際の管理は姫路市）。次いで1931年（昭和6年） 天守閣を国宝指定。後に渡櫓等も国宝指定される。ただしこの時点での「国宝」は「旧国宝」と呼ばれるもので、1950年施行の文化財保護法における重要文化財に相当するものである。

<img alt="230px-Himejijo_west_central-pillar.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/230px-Himejijo_west_central-pillar.jpg" width="230" height="173" />
以前の西心柱（西大柱）

昭和の大修理は1934年（昭和9年）、西の丸の渡櫓が豪雨のため石垣もろとも崩壊したのを契機に開始された。全ての建物を一回解体してから部材を修復し、再度組み立て直すという方法がとられる事となった。先に天守以外の建物を手がける事としたが、1944年（昭和19年）太平洋戦争の戦局悪化により中断を余儀なくされる。幸い先述したように空襲の危機を免れ、1950年（昭和25年）に大修理は再開される。1955年（昭和30年）までに天守以外の修理を完了した。

1956年（昭和31年）より天守大修理に着手する事となる。特に天守においては、その全体に巨大な素屋根を掛けて解体・修復工事が行われた。これによって構造物に書き込まれていた様々な文章が発見され、姫路城の研究に大きく役立てられた。一方で基礎は礎石を撤去し（三の丸広場北方にそのままの配置で移動された）、新たに十弁式定盤基礎と称する鉄筋コンクリート製の強固な基礎構造物が姫山の岩盤上に直接構築された。礎石のままでは天守の重量を支えきれないためである。

 
以前の西心柱（西大柱）天守を解体した時、これを支えていた東西の「心柱」のうち、西の心柱が芯から腐って再利用不能であると判断された。ただちにこれに替わる巨木探しが始まった。兵庫県神崎郡市川町の笠形神社境内の檜が検討されたが、上部に曲がりと根本に腐っている疑いとがあって保留された。1959年になってようやく、岐阜県恵那郡付知町（現中津川市）の山中に最適な檜が発見された。ところが、これは切り出す途中に折れてしまい、その近くで発見されたもう一本は森林鉄道を用いて運搬する途中で、そのあまりの長さ故に折れてしまう。窮余の策として二本目の根本側と笠形神社の檜とを継ぎ合わせて使用される事となった。実は本来の西心柱も二本継ぎで作られており、西心柱は構造上中央部で分割しないと立ち上げ時に先に組み上げられた東心柱に干渉し、狭い作業空間内で正しく組み上げられないのであった。これらの檜は姫路市民総出で大手前通りを祝い引きされ、姫路城内へと運び込まれた。

天守の修理に当たっては、他に重量低減のため特に工夫を加えて焼成された軽量瓦や、耐震補強のための金具類が新たに使用されている。一方で石垣などそのままで差し支えないと判断されたものはほとんど手を加えられていない。天守の修理は1964年（昭和39年）竣工した。

天守の工事費は約5億3,000万円であった。戦前修理分の費用を物価換算して、戦後の費用と合計すれば約10億円（1964年当時の価格）に相当すると考えられている。

1993年（平成5年）、世界遺産（文化遺産）に登録された。

2006年（平成18年）4月6日、日本100名城（59番）に選定され、2007年（平成19年）6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

・平成の大修理（予定）
2009年度着工〜2011年度竣工予定。工事費は10億円以上とされる。上記の「昭和の大修理」で50年は持つとされていたが漆喰や木材の劣化が進んだため、大天守の漆喰の塗り替え・瓦の葺き替え・耐震補強を重点に予定されている。工期中は修復作業を見学出来る「見せる修復」も検討中とのこと。

■築城者
姫路市街北部の姫山に最初に築城したのは、南北朝時代の正平元年/貞和2年（1346年）、赤松則村（円心）の子・赤松貞範であるという説が有力である。ただし、赤松氏時代は砦と呼ぶべき小規模なもので、「城」と呼べる規模の構築物としては、16世紀に播州平野に割拠した小寺氏の被官である黒田重隆が築城したのが最初であるという異説もある。

その後、天正8年（1580年）織田信長の重臣であった羽柴秀吉（後の豊臣秀吉）が播磨統治の中心拠点として姫路城を選定し、近世城郭にふさわしい体裁を整えた。

ただし現在残る城郭と遺構は秀吉時代のものではなく、徳川家康の娘婿で「西国将軍」の異名を取った池田輝政が慶長5年（1601年）から8年掛かりで築造したものである。普請奉行は池田家家老伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛である。作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人〜5千万人であろうと推定されている。

■形式と構造
・縄張（基本配置）
典型的な平山城。天守のある姫山を中心として、その周囲の平地まで含めた縄張となっている。全体としては、姫山の北方を起点に左回りに三重の螺旋を描くような構造であり、梯郭式縄張を成す。一周目を「内曲輪（くるわ）」、二周目を「中曲輪」、三周目を「外曲輪」と称する。曲輪とは区画の事である。現在では内曲輪の範囲が姫路城の範囲として認識されている。中曲輪・外曲輪は周囲の地形を利用し城下町を内包した「総構え」である。

内曲輪の内部においても、さらに本丸・二の丸・三の丸・西の丸・出丸（御作事所）の五重構造になっている。内曲輪には他に水曲輪・腰曲輪・帯曲輪などがある。これらはいの門・ろの門などいろは順に名付けられた門によって細かく区切られている。現在は三の丸は広場に、出丸は姫路動物園の一部になっている。内曲輪における櫓や門の位置関係については下の画像の説明文を参照のこと。

<img alt="200px-Himejijo_Uchikuruwa.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/200px-Himejijo_Uchikuruwa.jpg" width="200" height="208" />
内曲輪の航空写真（国土画像情報・国土交通省を元に作成）

輝政による築城はちょうど関ヶ原の戦いと大坂の役の間であり、ゆえに極めて実戦本位の縄張となっている。同時に優美さと豪壮さとを兼ね備えた威容は、「西国将軍」輝政の威を示すものでもある。姫路城以降は元和元年（1615年）の徳川幕府による一国一城令によって幕府の許可なく新たな築城や城の改修・補修が出来なくなったこともあり、江戸城や名古屋城といった徳川氏による築城を除いては姫路城に続くほどの規模の城は現れていない。

姫山北部には、築城以前の姿のままで残されている「姫山原生林」がある。この原生林の中には、本丸からの隠し通路の出口があるという噂があるが、今のところその存在は確認されていない。三の丸からは西の丸の石垣下にある鷺山口門が内堀に通じていた。

姫山の西を流れる船場川は、内堀に寄り添う形で流れており、堀同様の役割を果たしている。かつてはその名の通り水運のために利用されていた。

<img alt="230px-Himeji_Castle_seen_from_north.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/230px-Himeji_Castle_seen_from_north.jpg" width="230" height="184" />
姫路城を北方から望む（天守閣手前に姫山原生林が見える）

・通路と門
通路は迷路のように曲がりくねり、広くなったり狭くなったり、さらには天守へまっすぐ進めないようになっている。本来の地形や秀吉時代の縄張を生かしたものと考えられている。門もいくつかは一人ずつ通るのがやっとの狭さであったり、また、分かりにくい場所・構造をしていたりと、ともかく進みづらい構造をしている。当然これは防御のためのものであり、敵を迷わせ分散させ、袋小路で挟み撃ちにするための工夫がなされている。

<img alt="200px-Himeji_castle04_1024.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/200px-Himeji_castle04_1024.jpg" width="200" height="150" />
菱の門

例えば、現在の登城口（三の丸北側）から入ってすぐの菱の門からは、真っ直ぐいの門・ろの門・はの門の順に進めば天守への近道のように見えるが、実際は菱の門から右手に進んで石垣の中に隠された穴門であるるの門から進むのが近い。るの門は土砂で封鎖してしまえる埋門（うずみもん）でもあった。不意打ちのためのものであったとも考えられる。はの門からにの門へ至る通路は守り手側に背を向けなければ進めない。ほの門は極端に狭い鉄扉である。その後は天守群の周りを一周しなければ大天守へはたどり着けないようになっている。

画像の菱の門は伏見城から移されたという伝承があり、古式な姿を残している。

<img alt="120px-Himeji_castle02_1024.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Himeji_castle02_1024.jpg" width="120" height="90" />　　　<img alt="120px-Himeji_castle05_1024.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Himeji_castle05_1024.jpg" width="120" height="90" />
ホの櫓　　　　　　　　　　　との一門

<img alt="120px-Himeji_castle06_1024.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Himeji_castle06_1024.jpg" width="120" height="90" />　　　<img alt="120px-Himeji_castle07_1024.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Himeji_castle07_1024.jpg" width="120" height="90" />
にの門　　　　　　　　　　　にの門（内部）

・天守（天守閣）
姫路城の天守は江戸時代のままの姿で現在まで残っている天守の一つであり、まさしく姫路の象徴である。

<img alt="230px-Himeji_castle01_1024.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/230px-Himeji_castle01_1024.jpg" width="230" height="173" />
本丸から連立式天守を望む

<img alt="275px-Tower_of_Himeji-jo_001.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/275px-Tower_of_Himeji-jo_001.jpg" width="275" height="182" />
天守

姫路城の天守閣は姫山の頂上に設けられた天守台の上に、天正八年（1580年）の春、羽柴秀吉が現在の大天守に三層天守を構えたのが始まりである。その後池田輝政によって解体され、現在に姿を残している。

天守の構造は、東西二本の心柱で支えられた五重六階地下一階の七層の大天守と小天守3基（西・乾・東）で構成されている。天守の間は二重の渡り櫓で結ばれている。これを連立式と称する（現存12天守では伊予松山城が同じ）。建設時期や構成から後期望楼型に分類される。全体が白漆喰総塗籠造（しろしっくいそうぬりごめづくり）で、防火・耐火・鉄砲への防御のための構造にして、同時に美観を兼ね備えるためのものであると考えられる。「烏城」の異名で姫路城と対比される岡山城に代表されるような板壁が主であったこれ以前の城の外装が、漆喰壁へと移り変わったちょうどその過渡期にあたるものである。

その外観はほかの城の天守と比較しても非常に多様性に富んでいる。屋根の外見も大きく緩やかな曲線を描く唐破風（からはふ）、山なりの千鳥破風（ちどりはふ）、複数層にまたがる大入母屋破風といった具合に変化に富んでいる。窓も大天守二重目南面の唐破風の直下に置かれた巨大な出格子（でごうし）が目を引くが、一方で西・乾小天守にある釣り鐘のような形の火燈窓（かとうまど）も独特である。火燈窓は同様の後期望楼型天守である彦根城などにも見られる。

姫路城の天守は姫山（標高45.6m）の上に建っており、姫路城自体の高さは、石垣が14.85m、建物が31.5mなので合計すると海抜92mになる。天守の総重量は、現在はおよそ5,700tである。かつては6,200tほどであったとされるが、「昭和の大修理」に際して瓦などの軽量化が図られた。今日では天守内には姫路城にまつわる様々な品物が展示されている。

・西の丸
西の丸には現在は渡櫓とこれを結ぶ長局（ながつぼね）、そして、その北端に位置する化粧櫓のみが残っている。長局には侍女達の部屋が有る。化粧櫓は本多忠政が伊勢桑名から移ってきた時に、千姫の化粧料10万石で元和四年（1618年）に建てられたものである。千姫は西の丸内に設けられた中書丸（天樹院丸）と三の丸脇の武蔵野御殿に住んでいたが、いずれも現在は失われている。戦前の修理までは、化粧櫓にはその名の通り当時の化粧品の跡が残っていたという。

・腰曲輪・水曲輪
天守閣の北側にある腰曲輪（こしくるわ）には、籠城のための井戸や米蔵・塩蔵が設けられている。なお平時に用いる蔵は姫山の周囲に設けられていた。

天守の下は岩盤で井戸が掘れず、そのため天守と腰曲輪の間の補給の便のため水曲輪を設け、水一門から水五門までの門を設けている。

腰曲輪の中、ほの門内側に油壁（あぶらかべ）と呼ばれる土塀がある。白漆喰で塗られた他の壁と異なり、茶色の地肌が直接見える特異な姿をしている。製法やその理由については諸説有るが、秀吉時代の遺構という説もある。

・帯曲輪櫓（腹切丸）
天守閣の南東にある帯曲輪櫓（おびくるわやぐら）は別名を腹切丸（はらきりまる）と呼ばれる。本来は城の防御において射撃などに用いられる場所であったが、その薄暗い雰囲気に曲輪内の井戸なども相まってこの異名が生まれたものと考えられる。実際に切腹が行われたという記録はなく、そもそも城内で罪人などに切腹を行わせる事はあり得ない。

・防御施設
城壁には数多くの丸・三角・長方形の穴が開いている。これは狭間（はざま）という射撃用の穴で、長方形のものが矢狭間、他が鉄砲狭間である。長方形の狭間は他の城にもよく見られるが、様々な形の狭間をアクセントとして配置してあるのは独特である。狭間は姫路市内においても公共施設のデザインに組み込まれている（例えば橋の欄干、車止めブロックなどに丸・三角・四角の模様や穴が見られる）。さらに天守の壁に隠した隠狭間（非常時にのみ開かれる）、門や壁の中に仕込まれた石落し（ここから石・鉄砲・熱湯などで攻撃する）など、数多くの防御機構がその優美な姿の中に秘められている。

<img alt="120px-Himejijo_keshoyagura.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Himejijo_keshoyagura.jpg" width="120" height="85" />　　　<img alt="120px-Himeji_castle03_960.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Himeji_castle03_960.jpg" width="120" height="68" />
西の丸（中央に化粧櫓）　　　腰曲輪の油壁

<img alt="120px-Himejijo_harakirimaru.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Himejijo_harakirimaru.jpg" width="120" height="90" />　　　<img alt="120px-Himejijo_sama.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/120px-Himejijo_sama.jpg" width="120" height="90" />
帯曲輪櫓（腹切丸）　　　　　狭間

・その他の特徴的構造物
建物や塀の屋根に用いられている軒瓦などには、その瓦を作った時の城主の紋が彫り込まれている。池田氏の揚羽蝶紋、羽柴（豊臣）氏の桐紋、本多氏の三つ葉葵紋などがよく見られる。中には十字架のように見える十字の紋が彫り込まれた軒瓦もある。

・城主の居館
城主の居館は当初、天守台の下にある本丸にあって備前丸と称した。これは池田輝政の所領にちなむ名である。しかし、備前丸も山上で使いづらいため、本多忠政は三の丸に本城と称する館を立ててここに住んだ。以降の城主は本城、あるいは中曲輪の市の橋門内の西屋敷に居住している。徳川吉宗の時代の城主・榊原政岑が吉原から高尾太夫を落籍し住まわせたのもこの西屋敷である。西屋敷跡およびその一帯は今日では姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」として整備されている。

<img alt="230px-Himejijo_sannomaru.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/230px-Himejijo_sannomaru.jpg" width="230" height="173" />
三の丸広場

なお、今日では三の丸跡のうち本城跡には千姫ぼたん園、向屋敷跡には三の丸広場が開かれている。三の丸広場は市民の憩いの場となっており、各種のイベントスペースとしても使用される。

・中曲輪・外曲輪
中曲輪には侍屋敷、外曲輪には下級武士や町人の居住区などが置かれた。姫路市中心部に現在も残る町名として、鍛冶町・白銀町・金屋町・材木町・紺屋町などの職人の町、呉服町・綿町・米屋町・塩町・魚町・博労町などの商人の町、小姓町・鷹匠町・同心町・坊主町など身分にちなむ町名、上寺町・下寺町などの寺社の町がある。これらの多くが城郭の内にあり、江戸時代には日本では珍しい城郭都市を構成していた。このような「総構え」は他に江戸城や小田原城などにおける例がある。今日では中曲輪・外曲輪は堀と石垣の一部が残っているほか、国道372号に竹の門交差点、野里街道沿いに野里門郵便局といった形で門の名前が残っている。外曲輪の南側は山陽本線姫路駅付近にまで達していた。

<img alt="240px-Himeji_city_central.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/240px-Himeji_city_central.jpg" width="240" height="282" />
姫路市中心部（赤線内が内曲輪・緑線内が中曲輪・青線内が外曲輪）
航空写真（国土画像情報・国土交通省を元に作成）

<img alt="240px-Old_map_of_Himeji_castle.jpg" src="http://www.tokutoku21.net/240px-Old_map_of_Himeji_castle.jpg" width="240" height="236" />
姫路城古地図

なお、姫路城所在地の姫路市本町68番地は、周囲の警察署・高校・美術館等をも含み、単独の番地としては皇居の千代田区千代田1番地に次ぐ広さといわれる。本町68番地は内曲輪および中曲輪の範囲に相当し、明治・大正時代には陸軍歩兵第十連隊が配置されていた。1980年代以降この一帯の整備および再開発事業が行われ、様々な文化施設・観光名所が立ち並ぶ一帯となっている。

■文化財
・国宝
大天守、東小天守、西小天守、乾小天守、い・ろ・は・にの渡櫓の8棟。

・重要文化財
姫路城
重要文化財（建造物/城郭）：1931年（昭和6年）12月14日指定。 
イの渡櫓、ロの渡櫓、ハの渡櫓、ニの渡櫓、ホの櫓、ヘの渡櫓、トの櫓、チの櫓、リの一渡櫓、リの二渡櫓、折廻り櫓、井郭櫓、帯の櫓、帯郭櫓、太鼓櫓、ニの櫓、ロの櫓、化粧櫓、カの渡櫓、ヌの櫓、ヨの渡櫓、ルの櫓、タの渡櫓、ヲの櫓、レの渡櫓、ワの櫓、カの櫓、菱の門、いの門、ろの門、はの門、にの門、への門、との一門、との二門、との四門、ちの門、りの門、ぬの門、水の一門、水の二門、備前門、との四門東方土塀、との四門西方土塀、との二門東方土塀、との一門東方土塀、への門東方土塀、への門西方土塀、水の一門北方築地塀、水の一門西方土塀、ニの櫓南方土塀、水の五門南方土塀、イの渡櫓南方土塀、にの門東方上土塀、にの門東方下土塀、ロの櫓東方土塀、ロの櫓西方土塀、はの門東方土塀、はの門西方土塀、はの門南方土塀、ろの門東方土塀、ろの門西南方土塀、化粧櫓南方土塀、ワの櫓東方土塀、カの櫓北方土塀、菱の門西方土塀、菱の門南方土塀、菱の門東方土塀、いの門東方土塀、太鼓櫓南方土塀、太鼓櫓北方土塀、帯郭櫓北方土塀、井郭櫓南方土塀、トの櫓南方土塀、計74棟

・特別史跡
姫路城跡
特別史跡：1956年（昭和31年）11月26日指定。

■観光
・料金
大人：600円
子供：200円
その他、団体割引あり。

■アクセス
・山陽新幹線・山陽本線姫路駅北口、山陽電鉄山陽姫路駅より歩いて20分。
・神姫バス「姫路城大手門前」下車すぐ。土日祝日には神姫バスにより「姫路城ループバス」も運転される。
・城周囲に公営駐車場多数。

■外部リンク
・<a href="http://www.city.himeji.hyogo.jp/guide/castle/">姫路城大図鑑（姫路市）</a>
・<a href="http://www.himeji-kanko.jp/contents/castle/index.html">姫路城の達人（姫路観光協会）</a>
・<a href="http://menamomi.net/photo/siro/himezi/">姫路城・城の写真（姫路城フリー写真）</a>
・<a href="http://www.wikimapia.org/s/#y=34838868&x=134693906&z=16&l=0&m=s&v=1">姫路城（Wikimapia　航空写真）</a>

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   <title>法隆寺地域の仏教建造物</title>
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   <published>2008-01-02T15:03:45Z</published>
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   <summary>法隆寺の世界遺産</summary>
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      <name>大地</name>
      
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■<strong>法隆寺（ほうりゅうじ）地域の仏教建造物</strong>
・登録区分　文化遺産
・登録年 　　1993年

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法隆寺西院伽藍遠景

■概要
法隆寺をはじめとするこの地域の仏教建築物は聖徳太子と縁が深く、中国の六朝時代の建築の影響を多大に受けている。特に、法隆寺の西院伽藍は、建築年代に諸説あるが世界最古の木造建築として国際的にも著名である。

■案内
法隆寺（ほうりゅうじ） は、奈良県生駒郡斑鳩町にある、聖徳宗の総本山。別名：斑鳩寺（いかるがでら）。聖徳太子こと厩戸王ゆかりの寺院であり、創建は同じく聖徳太子ゆかりの寺院である大阪の四天王寺より約20年後の607年とされるが、確証はない。金堂、五重塔などがある西院と、夢殿などのある東院に分かれる。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産（文化遺産）に登録された。

■地図

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      <![CDATA[■起源・歴史
・創建
法隆寺は「日本仏教興隆の祖である聖徳太子が創建した寺院である」とするのが、一般的・常識的理解である。聖徳太子は謎の多い人物であり、20世紀末頃からは「聖徳太子は実在しなかった」とする言説が盛んになっているが、これには反論も出されている。『＜聖徳太子＞の誕生』の著者である大山誠一は、超人的人物として信仰の対象となっている「聖徳太子」は架空の存在だとしながらも、「聖徳太子」のモデルとなった厩戸王という人物の存在と、その人物が斑鳩宮及び斑鳩寺を建てたことは史実と認めている。

現存する法隆寺西院伽藍が7世紀末〜8世紀初の建立であることは定説となっており、この伽藍が建つ以前に焼失した前身寺院（いわゆる若草伽藍）が存在したことも発掘調査で確認されている。また、聖徳太子の斑鳩宮跡とされる法隆寺東院の地下からも前身建物の跡が検出されている。以上のことから、「聖徳太子」の人物像には後世の潤色が多く含まれているとしても、そのモデルとなった厩戸王によって7世紀の早い時期、斑鳩の地に本格的寺院が営まれたことは史実と認めてよいと思われる。

通説によれば、推古天皇9年（601年）、聖徳太子は斑鳩の地に斑鳩宮を建て、この近くに建てられたのが法隆寺であるとされる。金堂の「東の間」に安置される銅造薬師如来坐像（国宝）の光背銘には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇15年（607年）、像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。しかし、正史である『日本書紀』には（後述の670年の火災の記事はあるが）法隆寺の創建については何も書かれていない。

前述の金堂薬師如来像について
１．像自体の様式や鋳造技法の面から、実際の制作は7世紀後半に下るとみられること。
２．607年当時、日本における薬師如来信仰の存在が疑問視されること。
３．銘文中の用語に疑問がもたれること。
という理由から、文字通り607年までさかのぼる制作とは見なされていない。また、金堂の中央に安置される本尊は「623年に聖徳太子の冥福のため止利が造った」という内容の光背銘をもつ釈迦三尊像であり、これより古い薬師如来像が「東の間」に安置されて脇仏のような扱いをされている点も不審である。

このように、若干の不明点は残るものの、法隆寺の創建が7世紀前半の聖徳太子在世時にさかのぼることは、発掘調査の結果等からも明らかである。皇極天皇2年（643年）、蘇我入鹿が山背大兄王を襲った際に斑鳩宮は焼失したが、法隆寺はこの時は無事だったと考えられる。

日本書紀巻27に「夏四月癸卯朔壬申 夜半之後 災法隆寺 一屋無餘」（天智天皇9年・670年に法隆寺は一屋余すところなく焼失した）という記事がある。この記事の真偽をめぐって、現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子創建時のものであるとする説と、670年に全焼した後、再建したものであるとする説とが鋭く対立し、いわゆる「再建・非再建論争」が起きた（くわしくは後述）。なお、発掘調査や建築用材の伐採年代の科学的調査などの裏付けから、現存する法隆寺西院伽藍は670年の焼失後の再建であるということは定説となっている。

ただし、皇極天皇2年（643年）の上宮王家（聖徳太子の家）滅亡後、誰が西院伽藍を再建したのかなど、再建の事情については謎も多い。焼失前の旧伽藍（いわゆる「若草伽藍」）は、現存の西院伽藍の位置ではなく、かなり南東寄りに位置していた。また、現存の西院伽藍がほぼ南北方向の中軸線に沿って建てられているのに対し、旧伽藍の中軸線はかなり北西方向に傾斜している。さらに、現・西院伽藍の建つ土地は、尾根を削り、両側の谷を埋めて整地したものであることがわかっており、なぜ、大規模な土木工事を行ってまで伽藍の位置や方位を変更したのかは定かでない。

再建時期についても明確な記録はないが、現存の西院伽藍の建築を見ると、細部の様式などから、金堂がもっとも年代が上がり、7世紀末、持統天皇の頃の建立と考えられている。五重塔がそれに続き、中門、回廊はやや遅れての建築と見られる。『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によれば、中門の仁王像や五重塔初層安置の塑造彫刻群は和銅4年（711年）の制作とあり、この頃には西院伽藍全体が完成していたと考えられる。なお、平安時代に書かれた『七大寺年表』には和銅年間に法隆寺が建てられた、とある。

一方、八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍は、天平10年（738年）頃、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子をしのんで建立したものである。

延長3年（925年）には西院伽藍のうち大講堂、鐘楼が焼失し、永享7年（1435年）には南大門が焼失するなど、何度かの火災に遭ってはいるが、全山を焼失するような大火災には遭っておらず、建築、仏像をはじめ各時代の多くの文化財を今日に伝えている。

近世に入って、慶長年間（17世紀初頭）には豊臣秀頼によって、元禄〜宝永年間（17世紀末〜18世紀初頭）には江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院によって伽藍の修造が行われた。

近代に入ると、廃仏毀釈の影響で寺の維持が困難となり、1878年（明治11年）には管長千早定朝の決断で、聖徳太子画像（唐本御影）をはじめとする300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された。これらの宝物は「法隆寺献納宝物」と呼ばれ、その大部分は東京国立博物館の法隆寺宝物館に保管されている。

1934年（昭和9年）から「昭和の大修理」が開始され、金堂、五重塔をはじめとする諸堂宇の修理が行われた。「昭和の大修理」は第二次世界大戦を挟んで半世紀あまり続き、1985年（昭和60年）に至ってようやく完成記念法要が行われた。この間、1949年（昭和24年）には修理解体中の金堂において火災が発生し、金堂初層内部の柱と壁画を焼損した。このことがきっかけとなって、文化財保護法が制定されたことはよく知られる。1950年に法相宗から独立した。

1981年（昭和56年）からは「昭和資財帳調査」として、寺内の膨大な文化財の再調査が実施され、多くの新発見があった。調査の成果は『法隆寺の至宝−昭和資財帳』として小学館から刊行されている。

・再建・非再建論争
法隆寺ではこの寺は聖徳太子創建のままであるという伝承を持っていた。しかし、明治時代の歴史学者は『日本書紀』の天智天皇9年（670年）法隆寺焼失の記述からこれに疑問を持ち、再建説を取った。これに対して建築史の立場から反論が行われ、歴史界を二分する論争が起こった。再建派の主要な論者は黒川真頼、小杉榲邨（こすぎすぎむら）、喜田貞吉ら、非再建派は建築史の関野貞、美術史の平子鐸嶺（ひらこたくれい）らであった。

非再建論の主張
１．法隆寺の建築様式は他に見られない独特なもので、古風な様式を伝えている。薬師寺・唐招提寺などの建築が唐の建築の影響を受けているのに対し、法隆寺は朝鮮半島三国時代や、隋の建築の影響を受けている。
２．薬師寺などに使われている基準寸法は（大化の改新で定められた）唐尺であるが、法隆寺に使われているのはそれより古い高麗尺である。
３．日本書紀の焼失の記事は年代が誤っており、推古時代の火災の記事を誤って伝えたものであろう。

再建論の主張
１．日本書紀の記事は正確である。
２．飛鳥時代の様式や高麗尺が使われているといっても建設年代の決定的な証拠にはならない。

この他、論争の過程で、飛鳥時代に2つの寺が並存していた（一方が焼失した）等の説も出された。 
非再建論の主な論拠は建築史上の様式論であり、関野貞の「一つの時代には一つの様式が対応する」という信念が基底にあった。一方、再建論の論拠は文献であり、喜田貞吉は「文献を否定しては歴史学が成立しない」と主張した。論争は長期に及びなかなか決着を見なかったが、1939年（昭和14年）、聖徳太子当時のものであると考えられる前身伽藍、四天王寺式伽藍配置のいわゆる「若草伽藍」の遺構が発掘されたことから、次第に再建説が有力となった。

・最新の研究
2004年（平成16年）、奈良文化財研究所は高精度デジタルカメラ（千百万画素）で撮影した画像による年輪年代測定の結果を発表した。それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は668年（天智7） - 685年（天武14）ころに伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀末の再建であることがあらためて裏付けられた。

伐採年が日本書紀における法隆寺の焼失の年を遡ることは、若草伽藍が焼失する以前に現在の伽藍の建築計画が存在した可能性をも示唆するものであるが、これについては、若草伽藍と現在の伽藍の敷地があまり重なり合っていないことから、現在の伽藍は若草伽藍が存在している時期に建設が開始されたのではないかと考える研究者も存在する。

なお、五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって594年（推古2）に伐採されたと推定されており、他の部材に比べてなぜ心柱材のみが特に古いのかという疑問が残った。心柱材については、聖徳太子創建時の旧材を転用したとも考えられている。

・『隠された十字架』を巡る論争
1972年に梅原猛が発表した論考『隠された十字架』は、西院伽藍の中門が4間で中央に柱が立っているという特異な構造に注目し、出雲大社との類似性を指摘して、再建された法隆寺は王権によって子孫を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じる為の寺なのではないかとの説を主張した。この説は大論争を巻き起こしたが、歴史学の研究者は、一般的な怨霊信仰の成立が奈良時代末期であることなどを指摘し、概ね梅原説には批判的であった。

とはいえ、本書が与えた影響は大きなものがあり、山岸涼子は本書に直接のインスピレーションを得て『日出処の天子』を発表した。また建築家の武澤秀一は、中門の中心にある柱が怨霊封じの為であるという梅原の説は退けつつも、梅原の問題提起を高く評価し、イーフー・トゥアンなど現象学的空間論を援用しながら、法隆寺西院伽藍の空間設計が、それ以前の四天王寺様式が持つ圧迫感を和らげる為に考案されたものであり、先行する百済大寺（武澤は吉備池廃寺を百済大寺に比定して論を展開している）や川原寺で試みられた「四天王寺様式を横にした」空間構築の完成形であったのではないかと論じている。

■伽藍と文化財
【西院伽藍】
金堂南大門を入って正面のやや小高くなったところに位置する。向かって右に金堂、左に五重塔を配し、これらを平面「凸」字形の回廊が囲む。回廊の南正面に中門（ちゅうもん）を開き、中門の左右から伸びた回廊は北側に建つ大講堂の左右に接して終わっている。回廊の途中、「凸」字の肩のあたりには東に鐘楼、西に経蔵がある。以上の伽藍を西院伽藍と呼んでいる。金堂、五重塔、中門、回廊は聖徳太子在世時のものではなく7世紀後半頃の再建であるが、世界最古の木造建造物群であることは間違いない。

・中門（国宝）
入母屋造の二重門。日本の寺院の門は正面の柱間が奇数（3間、5間、7間等）になるのが普通だが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立つ点が特異である。門内の左右に塑造金剛力士立像を安置する。日本最古（8世紀初）の仁王像として貴重なものであるが、風雨にさらされる場所に安置されているため、補修が甚だしく、吽形（うんぎょう）像の体部は木造の後補に代わっている。門は現在、出入り口としては使用されず、金堂等の拝観者は回廊の西南隅から入る。

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中門

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・金堂（国宝）
入母屋造の二重仏堂。ただし上層に部屋等がある訳ではなく、屋根を二重にしたのは外観を立派にするためである。金堂に見られる組物（軒の出を支える建築部材）は、雲斗、雲肘木などと呼ばれ、曲線を多用した独特のものである。この他、二階の卍くずしの高欄（手すり）、それを支える「人」字形の束（つか）も独特である。これらは法隆寺金堂・五重塔・中門、法起寺三重塔、法輪寺三重塔のみに見られる様式で7世紀建築の特色である。

二重目の軒を支える四方の龍の彫刻を刻んだ柱は構造を補強するため鎌倉時代の修理の際に付加されたものである。金堂の壁画は日本の仏教絵画の代表作として国際的に著名なものであったが、1949年、壁画模写作業中の火災により、初層内陣の壁と柱を焼損した。黒こげになった旧壁画（重文）と柱は現存しており、寺内大宝蔵殿北方の収蔵庫に保管されているが非公開である。なお、解体修理中の火災であったため、初層の外側と二階のすべて、それに堂内の諸仏は難をまぬがれた。この火災がきっかけで文化財保護法が制定され、火災のあった1月26日が文化財保護デーになっている。
堂内は中の間、東の間、西の間に分かれ（ただし、これらの間に壁等の仕切りがあるわけではない）、それぞれ釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来を本尊として安置する。

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金堂

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・釈迦三尊像（国宝）
「起源と歴史」の項で述べた、623年、止利仏師作の光背銘を有する像で、日本仏教彫刻史の初頭を飾る名作である。図式的な衣文の処理、杏仁形（アーモンド形）の眼、アルカイックスマイル（古式の微笑）、太い耳朶（耳たぶ）、首に三道（3つのくびれ）を刻まない点など、後世の日本の仏像と異なった様式を示し、大陸風が顕著である。

・薬師如来坐像（国宝）
「起源と歴史」の項で述べた東の間本尊。本像の脇持とされる日光・月光菩薩像は別に保管されるが、作風が異なり、本来一具のものではない。

・阿弥陀三尊像（重文）
鎌倉時代の慶派の仏師・康勝の作。元来の西の間本尊が中世に盗難にあったため、新たに作られたもの。全体の構成、衣文などは鎌倉時代の仏像にしては古風で、東の間の薬師如来像を模したと思われるが、顔の表情などは全く鎌倉時代風になっている。なお、両脇侍像のうち1体は明治時代に寺外に出て、現在フランス・ギメ美術館蔵となっており、現在金堂にあるのは模造である。

・四天王立像（国宝）
飛鳥時代の作。釈迦三尊像等と違って、銅造でなく、木造彩色である。後世の四天王像と違って、怒りの表情やポーズを表面にあらわさず、邪鬼の上に直立不動の姿勢で立つ。

・毘沙門天・吉祥天立像（国宝）
中の間本尊釈迦三尊像の左右に立つ、平安時代の木造彩色像。 
吉祥天立像（重文）-諸像の背後に北向きに立つ。奈良時代の塑像だが、補修が多く、表面の仕上げはほとんど後世のものに代わっている。
なお、中の間と西の間の本尊の頭上にある天蓋（重文）も飛鳥時代のものである（東の間の天蓋は鎌倉時代）。

・五重塔五重塔（国宝）
木造塔として日本最古のもの。初重から五重までの屋根の逓減率（大きさの減少する率）が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具（国宝）と呼ばれる塑造の群像を安置する（計80点の塑像が国宝）。東面は「維摩経」（ゆいまきょう）に登場する、文殊菩薩と維摩居士の問答の場面、北面は釈迦の涅槃、西面は分舎利（インド諸国の王が釈尊の遺骨を分配）の場面、南面は弥勒の浄土を表わす。北面の釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像が特に有名である。五重塔内部にも壁画（現在は別途保管、重文）があったが、剥落が激しい。

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五重塔

・回廊（国宝）
金堂などとほぼ同時期の建立。廊下であるとともに、聖域を区切る障壁でもある。ただし、大講堂寄りの折れ曲がり部分より北は平安時代の建立である。当初の回廊は大講堂前で閉じており、大講堂は回廊外にあった。

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西院回廊と大講堂

・経蔵（国宝）
奈良時代の楼造（二階建）建築。観勒僧正坐像（重文）を安置するが、内部は非公開。

・鐘楼（国宝）
経蔵と対称位置に建つが、建立時代は平安期。

・大講堂（国宝）
平安時代の建立。薬師三尊像（平安時代、国宝）と四天王像（重文）を安置する。

【東院伽藍】
聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。回廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿が建ち、回廊南面には礼堂、北面には絵殿及び舎利殿があり、絵殿及び舎利殿の北に接して伝法堂が建つ。

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東院鐘楼

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東院回廊と礼堂

・夢殿（国宝）
天平時代の建立。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する。

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夢殿

・観音菩薩立像（救世観音）（国宝）
飛鳥時代、木造。夢殿中央の厨子に安置する。長年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉天心とフェノロサが初めて