石見銀山遺跡とその文化的景観

島根の世界遺産

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石見銀山遺跡とその文化的景観

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石見銀山(いわみぎんざん)
・登録区分 文化遺産
・登録年   2007年

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龍源寺間歩(入口)

■概要
石見銀山は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけての日本最大の銀山。鉱脈は石見国東部、現在の島根県大田市大森の地を中心とし、同市仁摩町や温泉津町にも広がっていた。日本を代表する鉱山遺跡として1969年(昭和44年)に国指定の史跡に登録された。2007年(平成19年)に、ユネスコの世界遺産への登録が決定された。同年、日本の地質百選に選定された。

殺鼠剤の『石見銀山』については、後述の「副産物」を参照のこと。

・市・県・国による文化財指定と保護
石見銀山にある歴史的な建造物や遺構は市・県・国などによって文化財に指定され保護されてきた。1967年(昭和42年)に石見銀山は島根県から「大森銀山遺跡」として県文化財史跡に指定され、さらに1969年(昭和44年)には国から「石見銀山遺跡」として国史跡に指定された。さらに、大森地区の町並みについても鉱山町として1969年(昭和62年)に重要伝統的建造物群保存地区に選定され、銀の積出港であった温泉津地区の町並みについても港町・温泉町として2004年(平成16年)に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。

・登録までの経緯
日本政府は「東西文明交流に影響を与え、自然と調和した文化的景観を形作っている、世界に類を見ない鉱山である」として、「石見銀山遺跡とその文化的景観」の世界遺産登録を目指し、2001年に世界遺産登録の前提となる「暫定リスト」に掲載し、2006年1月にUNESCO世界遺産委員会に推薦書を提出した。

2007年5月、各国から推薦された世界遺産登録候補を審査するUNESCOの諮問機関である国際記念物遺跡会議(ICOMOS)が、遺跡の普遍的価値の証明が不十分であることを理由に「石見銀山は登録延期が適当」と勧告した。それを受け、日本政府や地元は「世界遺産への登録は極めて厳しい」と判断したが、ユネスコ政府代表部は、委員会構成国の大使や専門家に、勧告に反論する110ページにわたる英文の「補足情報」を送るなどして、石見銀山の特徴である「山を崩したり森林を伐採したりせず、狭い坑道を掘り進んで採掘するという、環境に配慮した生産方式」を積極的に紹介し、巻き返しのための外交活動を展開した。

結果、「21世紀が必要としている環境への配慮」がすでにこの場所で行われていたことが委員の反響を呼び、6月28日、世界遺産委員会の審議により、世界遺産(文化遺産)としての登録が満場一致で正式に決定された。日本の世界遺産登録としては14件目であり、文化遺産としては11件目、産業遺跡としては日本国内初の登録となる。

石見銀山の登録に向けて日本政府の外交活動を率いた、ユネスコ政府代表部の近藤誠一大使は、2007年9月8日に、島根県大田市で開かれたシンポジウムの中で、銀山周辺に残る自然が逆転登録の決め手になったことを明かしている。近藤大使はICOMOSによる登録延期勧告を受け、各国の政府代表などに対し、石見銀山が伐採した分だけ植林していたことなど、自然に対する配慮の歴史を積極的に説明したところ、政府代表らの反応が良く強い手ごたえを感じたという。

■世界遺産
和名は島根県教育庁文化財課世界遺産登録推進室による公式サイトの表記、英語表記と数字はユネスコ世界遺産センターによる世界遺産登録物件名と世界遺産登録ID。

・銀鉱山跡と鉱山町
 銀山柵内
 代官所跡
 矢滝城跡
 矢筈城跡
 石見城跡
 大森銀山伝統的重要建造物群保存地区
 宮ノ前地区
 重要文化財 熊谷家住宅
 羅漢寺五百羅漢
 佐毘売山神社

・石見銀山街道
 鞆ヶ浦道
 温泉津沖泊道

・港と港町
 鞆ヶ浦
 沖泊
 温泉津伝統的重要建造物群保存地区


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■開発
『銀山旧記』などには、鎌倉時代末期の延慶年間に周防の大内弘幸が石見に来訪して銀を発見したという伝説が記されているが、今日、石見銀山を本格的に開発したのは博多の商人・神谷寿貞であるとされている。

『石見銀峯山清水寺天地院縁起』によれば、海上から山が光るのを見た神谷は領主大内義興の支援と出雲の銅山主・三島清右衛門の協力を得て1526年(大永6年)3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。義興の死後、大内義隆が九州経営に気を取られている間、1530年(享禄3年)に地方領主・小笠原長隆が銀山を奪い、3年後に大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。この年の8月、神谷寿貞は大森に入り、中国渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功した。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦(仁摩町)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され取引された。

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清水谷精錬所跡

■銀山争奪
1537年(天文6年)、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。大内義隆の死後は、毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、1562年(永禄5年)には最終的に毛利氏が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。1584年(天正12年)毛利氏が豊臣秀吉に服属すると銀山は毛利氏と豊臣氏の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた。

■商業への影響
石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていた。このため、精錬加工された銀(『丁銀』)は基本通貨として広く国内(主に銀本位制の西日本)で流通したばかりでなく、16世紀後半からマカオを拠点に来航するようになったポルトガルや17世紀初めに来航したオランダ東インド会社さらに中国密貿易商人らとの活発な交易をも支えた。当時の銀産出量は世界全体の三分の一(その生産量の平均は年間38トン程度であったと推測されている)に達し、スペインのペルー副王領ポトシ(現ボリビア、世界遺産)のセロ・リコと並ぶ銀産出地として西欧・中国でも有名になった。丁銀は秤量貨幣(額面が無く重量で価値が決定。取引の際は必要に応じ切り分けて使用)のため、原形をとどめる物は希少。

その殷賑ぶりは、当時のポルトラーノ地図にも記載されている。航海術の発展に伴って西欧諸国の王侯、特にスペイン国王はイスラム圏から入手した地図を大量に持っており、更には独自にかなりの地図を作成した。この地図を持った船団が、インド・マレー半島・中国・日本にも貿易の手を伸ばし、石見銀山で産出される銀を求めてやってきた。

銀山を手中にした武将(大内氏、尼子氏、毛利氏、豊臣氏)は積極的にこれらの海外諸国と貿易を行い、その輸入品の中に当時貴重であった『火縄銃』が含まれていた可能性も指摘されている。

なお、イギリス船やオランダ船は石見から産出される銀を「ソーマ銀」と呼んでいたといわれるが、これは銀鉱のある大森地区の旧名「佐摩」に由来するとされる。

■幕府直轄領
関ヶ原の戦い後、徳川家康は石見の江の川以東の地域を幕府直轄領とし、初代銀山奉行として大久保石見守長安を任命した。長安は山師(鉱山経営者)安原伝兵衛らを使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀を納め朱印船貿易の元手にもなった。銀山開発の費用・資材(燃料など)を賄うため、周辺の郷村に直轄領である石見銀山領(約5万石)が設置されて大森に奉行所が置かれた。安原伝兵衛の釜屋間歩の発見などにより17世紀初頭(慶長年間から寛永年間)に銀の産出はピークに達し、『当代記』によれば慶長7年(1602年)の運上銀は4〜5千貫に達したといわれる。その後、銀産出量は次第に減少し、1675年(延宝3年)に銀山奉行の職は大森代官に格下げされた(大森の奉行所は大森代官所となる)。

当初、産出した銀は現大田市の鞆ヶ浦(仁摩町)や沖泊(温泉津町)から船で搬出されていた。冬の日本海は季節風が強く航行に支障が多いため、長安は大森から尾道まで中国山地を越え瀬戸内海へ至る陸路の「銀山街道」(大森〜粕淵〜九日市(美郷町)〜三次〜甲山〜御調〜尾道)を整備し、尾道から京都伏見の「銀座」へ輸送するようにした。幕府(直轄地外では沿道各藩)による取り締まりの下、直轄地内の郷村に対する人的・物的負担や、街道各村にも銀の輸送にあたる人馬や経費負担(警備・接待など)の提供が厳しく課せられ、大きな負担となった。時として訴え出る者や争議が起こったが、この輸送は幕末まで続いた。

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かつての外港の一つ(温泉津の町並み)

1731年(享保16年)、大岡忠相の推挙により任ぜられた、第十九代代官の、井戸平左衛門正明(いどへいざえもんまさあきら)は60才の高齢と任期2年の短期にもかかわらず、領民から「いも代官」として慕われ、現在の島根県だけでなく鳥取・広島県にも功績を称える多くの頌徳碑が建てられている。その功績は、享保の大飢饉に苦しむ領民のため薩摩国から他の地域に先駆け石見国に甘藷(さつまいも)導入・普及をもたらし、飢饉の際には自らの財産や裕福な農民から募った浄財で米を買い、幕府の許可を得ぬまま代官所の米蔵を開いて与えたり、年貢を免除・減免した(後年、備中国笠岡で没した原因として病死説と切腹説があり、前者が概ね定説となっているが論議も続いている)。

石見銀山は江戸時代前期にも日本の膨大な銀需要を支えた(銅も産出)が、元禄期になると次第に産出量が少なくなり、江戸末期には深く掘らなければ銀を産出できなくなり地下水にも悩まされ採算がとれなくなっていった。

1866年(慶応2年)6月の第二次長州戦争において、幕府は石見国に紀州藩・備後福山藩・浜田藩・松江藩の藩兵を出動させたが、長州軍の村田蔵六(のちの大村益次郎)隊の進発を食い止めることができず、7月に浜田藩主・松平武聡は浜田城を脱出しその後落城した。これにより長州軍の石見銀山領への進撃は不可避なものとなり、最後の大森代官・鍋田三郎右衛門成憲は7月20日の夜に家来とともに備中国倉敷へと逃亡し、石見銀山の幕府支配は終焉を迎えた(温泉津町誌編纂委員会編『温泉津町誌』)。

以後、旧石見銀山領は長州藩の長州民政方(大森本陣)によって支配されることとなり、1868年(慶応4年)1月に長州藩預地となったのち、1869年(明治2年)8月には大森県が設置されて長州藩による支配は終わった。

■明治期以降の石見銀山と終末
石見銀山は1868年(明治元年)の太政官布告による民間払い下げにより田中義太郎が経営権を取得したが、1872年(明治5年)の浜田地震の被害を受けてしばらく休山となった。その後、1887年(明治19年)からは大阪の藤田組(後に同和鉱業から現在はDOWAホールディングス)により再開発の試みが続けられた。藤田組は採鉱施設・事務所などを大森から柑子谷(仁摩町大国)の「永久鉱山」に移すが、1923年(大正12年)には休山するに至った。その後、日中戦争、太平洋戦争の最中、軍需物資としての銅の国産化を目論んで、1941年(昭和16年)より銅の再産出を試みるものの、1943年(昭和18年)の水害で坑道が水没する大打撃を受け、完全閉山となる。鉱業権はDOWAホールディングスが保有している。

現在でも銀山採掘のために掘られた「間歩」と呼ばれる坑道が500余り残り、龍源寺間歩の一部は一般公開されている。

■副産物
石見(大森)銀山で銀を採掘する際に砒素は産出していないが、同じ石見国(島根県西部)にあった旧笹ヶ谷鉱山(津和野町)で銅を採掘した際に、砒石と呼ばれる黒灰色の鉱石が産出した。砒石には猛毒である砒素化合物(亜ヒ酸)を大量に含んでおり、これを細かく砕いたものを殺鼠剤とした。この殺鼠剤は主に販売上の戦略から、全国的に知れ渡った銀山名を使い、「石見銀山ねずみ捕り」あるいは単に「石見銀山」と呼ばれて売られた。

金銀の精錬工程として当時の日本においては先進的であった「灰吹法」という技術が使われ、その際に鉛の蒸気を吸い込んだ鉱夫たちは急性または慢性の鉛中毒を発症した。鉛には発がん性もあると考えられているので、坑道内の出水・高温多湿や鉱滓・煤塵などの劣悪な環境も相まって、当時の鉱夫は短命であったといわれる。大森地内に各宗派の寺院が多数あることや、古文書の研究からその平均寿命はおよそ30歳程度であり、家族構成はその多くが独身もしくは夫婦のみ、と伝えられている。「灰吹法」と似たものとして、水銀を用いるアマルガム法がある。
1977年(昭和52年)、作家杉本苑子は代官井戸平左衛門正明を題材にした小説「終焉」を発表。

■外部リンク
島根県/文化財課世界遺産登録推進室/石見銀山
石見銀山(大田市)
石見銀山資料館

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