姫路城

姫路の世界遺産

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姫路城

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姫路城(ひめじじょう)
・登録区分 文化遺産
・登録年   1993年

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姫路城天守(西の丸・南西方面)より望む

■概要
今や全国に12箇所しか現存していない、江戸時代以前に建造された天守を有する城郭の一つである。(現存天守)

国宝四城(姫路城・松本城・彦根城・犬山城)の一つでもあり、築城以来の姿をよく残している事もあって、時に「天下の名城」あるいは「日本一の名城」と言われる。

築城以来廃城や戦火の危機を免れてきた事から天守をはじめ多くの建造物が現存し、うち大天守、小天守、渡櫓等8棟が国宝、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に指定されている。また1993年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。

姫路城の所在地「姫路市本町68番地」は、日本の番地では皇居の位置する「千代田区千代田1番地」に次ぐ面積を誇る。近代には陸軍歩兵第十連隊が駐屯していた。

白壁の美しい城であり、時代劇を始めとして映画などのロケが行われる事も多い。しばしば江戸城など他の城の代わりとして撮影されている。

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桜の季節の姫路城を南東より望む

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夕闇迫る姫路城を東から望む

■地図

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■歴史
山陽道上の交通の要所・姫路に置かれた姫路城には、江戸時代には池田輝政およびその子・孫以降は親藩松平氏や譜代大名が配置され、さらに西国の外様大名監視のために西国探題が設置された。

・室町時代・安土桃山時代
築城は南北朝時代、赤松則村(円心)が姫路山上に築いた称名寺をもとに、正平元年(1346年)の赤松貞範による築城説が有力である(築城者の項も参照のこと)。室町時代の嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で赤松氏が没落すると、一時山名氏が入るが、応仁の乱の混乱の中赤松氏に奪還された。

16世紀前半、御着城(現在の姫路市御国野町御着)を中心とした赤松支族の小寺氏が播州平野に台頭、その被官であった黒田重隆が城代として姫路城に入った(この時期の築城説もある)。重隆によって居館程度の規模であった姫路城の修築がある程度行われ、姫山の地形を生かした中世城郭となったと考えられている(規模は現在残るものよりもはるかに小さい)。天正元年まで黒田氏が代々城代を勤め、重隆の子職隆、孫の孝高(官兵衛、如水)に伝えられた。ところが、天正4年(1576年)に織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国地方の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。ただし小寺氏の被官でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕える事となった。

天正8年(1580年)、黒田孝高は秀吉に居城であった姫路城を献上した。秀吉は大整備を行って姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、さらに天守(三層と伝えられる)を建築した。あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。この際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、姫路の城下町を通るようにも改めている。

天正10年(1582年)6月、秀吉は主君信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人への地位を駆け上っていく。このため翌天正11年(1583年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟の羽柴秀長(後の豊臣秀長)が入ったが天正13年(1585年)には大和郡山へと転封、替わって親族の木下家定が入った。

慶長5年(1601年)、家定は備中に2万5千石で転封、代わって池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功で52万石(播磨一国支配)で入城した。輝政によって8年掛かりに及ぶ大改修が行われ、広大な城郭が築かれる事となった。

・江戸時代
元和3年(1617年)、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、重要地を任せるには不安である事を理由に因幡鳥取へ転封させられ、伊勢桑名から本多忠政が15万石で入城した。元和4年(1618年)には千姫が本多忠刻に嫁いだのを機に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。

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姫路城鳥瞰図

要衝姫路の藩主は親藩および譜代大名が務めたが、本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家、再度越前松平家、再度本多家、再度榊原家、再々度越前松平家とめまぐるしく入れ替わる。寛延2年(1749年)上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。しかし、豪壮な姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職も相まって藩の経済を圧迫していた。

姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行われてきたが、当時の技術では天守の重量に礎石が耐えられず沈み込んでいくのを食い止める事は難しかった。加えて柱や梁などの変形も激しく、俗謡に『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』などと歌われるありさまであった。

幕末期、鳥羽・伏見の戦いにあって姫路城主酒井忠惇は老中として幕府方に属し将軍徳川慶喜と共にあったため、姫路藩も朝敵とされ姫路城は岡山藩と龍野藩の兵1,500人に包囲された。この時、輝政の子孫・池田茂政の率いる岡山藩の部隊が姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行っている。その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。官軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風正造が15万両に及ぶ私財を官軍に献上し、それを食い止めた。この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定、城明け渡しで官軍と和睦する。こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避され、後年の世界遺産は焼失を逃れた。

・明治時代
1871年(明治4年)に廃藩置県がおこなわれ、さらに1873年(明治6年)の廃城令によって日本の城の多くがもはや不要であるとして破却された。姫路城は競売に付され、城下の米田町に住む個人、神戸某が23円50銭で落札した。城の瓦を売るのが目的であったという。しかし、解体費用がかかりすぎるとの理由で結局そのままにされ、権利も消滅した。その後1927年(昭和2年)、その個人の息子が、姫路城の所有権を主張して訴訟を起こそうとしたと報じた新聞があったが、別の新聞が後日取材したところでは事実無根だという話であったという。

城跡は陣地として好適な場所であった事から、陸軍の部隊は城跡に配置される例が多かった。1874年(明治7年)には姫路城内に歩兵第十連隊が設置された。この際、本城などの三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊された。さらに1882年(明治15年)には失火で備前丸を焼失している。

一方で、明治時代初頭の大変革が一段落付いた1877年(明治10年)頃には、日本の城郭を保存しようという動きが見られるようになった。陸軍において建築・修繕を担当していた中村重遠(しげとお)大佐は、1878年(明治11年)に陸軍卿山縣有朋に名古屋城および姫路城の保存を太政官に上申するよう願い出て、ようやく姫路城の修復は第一歩を踏み出した。姫路城の菱の門内側には中村大佐の顕彰碑が残る。だが、肝心の予算はなかなか下りず、陸軍の予算からどうにか捻出された保存費は要求額の半分にも満たないものであった。これによってどうにか応急的な修理を施したもののなおも腐朽は進む一方であり、城下各地の有志達の衆議院への陳情によってようやく1910年(明治43年)、国費9万3千円が支給されて「明治の大修理」が行われた。これも天守の傾きを修正するには費用が足りず、傾きが進行するのを食い止めるに留まった。その後、1919年(大正8年)にも陸軍省が西の丸を修理している。後に第十連隊は岡山へ移転した。

・不戦の城
昭和の大修理について触れる前に、姫路城が「不戦の城」とも呼ばれる所以について記す。姫路城は幕末と太平洋戦争の二度の戦禍を免れた事から「不戦の城」と呼ばれる事がある。しかし、実際にはいずれにおいても戦火が間近に近づく危機にさらされている。幕末の危機は先に述べた通りである。

太平洋戦争にあって姫路城の白壁は非常に目立ち、又、陸軍の部隊が置かれていた姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網で城の主要な部分を覆い隠す事とした。しかし、1945年(昭和20年)7月3日の姫路大空襲で姫路城下は灰燼と帰する。城内にも着弾するが本城跡に有った中学校校舎のみが焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発だった(2006年7月23日付神戸新聞記事より。当時、不発弾処理にあたった元士官の証言で明らかになった)など、城本体は奇跡的に炎上を免れた(姫路城は貴重な文化財なので爆撃対象とはされなかったという俗説があるが、日本の他の都市の城郭、例えば名古屋城やドイツにおける無差別爆撃では歴史的建造物も容赦なく破壊されたことから、そのような考えはなかったとするのが一般的である。また、当時のB-29搭乗員は『レーダーから見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい』と回顧している)。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、城下の人々は涙したという。

・昭和の大修理
1928年(昭和3年)に姫路城は史跡指定され、文部省の管理となる(実際の管理は姫路市)。次いで1931年(昭和6年) 天守閣を国宝指定。後に渡櫓等も国宝指定される。ただしこの時点での「国宝」は「旧国宝」と呼ばれるもので、1950年施行の文化財保護法における重要文化財に相当するものである。

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以前の西心柱(西大柱)

昭和の大修理は1934年(昭和9年)、西の丸の渡櫓が豪雨のため石垣もろとも崩壊したのを契機に開始された。全ての建物を一回解体してから部材を修復し、再度組み立て直すという方法がとられる事となった。先に天守以外の建物を手がける事としたが、1944年(昭和19年)太平洋戦争の戦局悪化により中断を余儀なくされる。幸い先述したように空襲の危機を免れ、1950年(昭和25年)に大修理は再開される。1955年(昭和30年)までに天守以外の修理を完了した。

1956年(昭和31年)より天守大修理に着手する事となる。特に天守においては、その全体に巨大な素屋根を掛けて解体・修復工事が行われた。これによって構造物に書き込まれていた様々な文章が発見され、姫路城の研究に大きく役立てられた。一方で基礎は礎石を撤去し(三の丸広場北方にそのままの配置で移動された)、新たに十弁式定盤基礎と称する鉄筋コンクリート製の強固な基礎構造物が姫山の岩盤上に直接構築された。礎石のままでは天守の重量を支えきれないためである。


以前の西心柱(西大柱)天守を解体した時、これを支えていた東西の「心柱」のうち、西の心柱が芯から腐って再利用不能であると判断された。ただちにこれに替わる巨木探しが始まった。兵庫県神崎郡市川町の笠形神社境内の檜が検討されたが、上部に曲がりと根本に腐っている疑いとがあって保留された。1959年になってようやく、岐阜県恵那郡付知町(現中津川市)の山中に最適な檜が発見された。ところが、これは切り出す途中に折れてしまい、その近くで発見されたもう一本は森林鉄道を用いて運搬する途中で、そのあまりの長さ故に折れてしまう。窮余の策として二本目の根本側と笠形神社の檜とを継ぎ合わせて使用される事となった。実は本来の西心柱も二本継ぎで作られており、西心柱は構造上中央部で分割しないと立ち上げ時に先に組み上げられた東心柱に干渉し、狭い作業空間内で正しく組み上げられないのであった。これらの檜は姫路市民総出で大手前通りを祝い引きされ、姫路城内へと運び込まれた。

天守の修理に当たっては、他に重量低減のため特に工夫を加えて焼成された軽量瓦や、耐震補強のための金具類が新たに使用されている。一方で石垣などそのままで差し支えないと判断されたものはほとんど手を加えられていない。天守の修理は1964年(昭和39年)竣工した。

天守の工事費は約5億3,000万円であった。戦前修理分の費用を物価換算して、戦後の費用と合計すれば約10億円(1964年当時の価格)に相当すると考えられている。

1993年(平成5年)、世界遺産(文化遺産)に登録された。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(59番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

・平成の大修理(予定)
2009年度着工〜2011年度竣工予定。工事費は10億円以上とされる。上記の「昭和の大修理」で50年は持つとされていたが漆喰や木材の劣化が進んだため、大天守の漆喰の塗り替え・瓦の葺き替え・耐震補強を重点に予定されている。工期中は修復作業を見学出来る「見せる修復」も検討中とのこと。

■築城者
姫路市街北部の姫山に最初に築城したのは、南北朝時代の正平元年/貞和2年(1346年)、赤松則村(円心)の子・赤松貞範であるという説が有力である。ただし、赤松氏時代は砦と呼ぶべき小規模なもので、「城」と呼べる規模の構築物としては、16世紀に播州平野に割拠した小寺氏の被官である黒田重隆が築城したのが最初であるという異説もある。

その後、天正8年(1580年)織田信長の重臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が播磨統治の中心拠点として姫路城を選定し、近世城郭にふさわしい体裁を整えた。

ただし現在残る城郭と遺構は秀吉時代のものではなく、徳川家康の娘婿で「西国将軍」の異名を取った池田輝政が慶長5年(1601年)から8年掛かりで築造したものである。普請奉行は池田家家老伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛である。作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人〜5千万人であろうと推定されている。

■形式と構造
・縄張(基本配置)
典型的な平山城。天守のある姫山を中心として、その周囲の平地まで含めた縄張となっている。全体としては、姫山の北方を起点に左回りに三重の螺旋を描くような構造であり、梯郭式縄張を成す。一周目を「内曲輪(くるわ)」、二周目を「中曲輪」、三周目を「外曲輪」と称する。曲輪とは区画の事である。現在では内曲輪の範囲が姫路城の範囲として認識されている。中曲輪・外曲輪は周囲の地形を利用し城下町を内包した「総構え」である。

内曲輪の内部においても、さらに本丸・二の丸・三の丸・西の丸・出丸(御作事所)の五重構造になっている。内曲輪には他に水曲輪・腰曲輪・帯曲輪などがある。これらはいの門・ろの門などいろは順に名付けられた門によって細かく区切られている。現在は三の丸は広場に、出丸は姫路動物園の一部になっている。内曲輪における櫓や門の位置関係については下の画像の説明文を参照のこと。

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内曲輪の航空写真(国土画像情報・国土交通省を元に作成)

輝政による築城はちょうど関ヶ原の戦いと大坂の役の間であり、ゆえに極めて実戦本位の縄張となっている。同時に優美さと豪壮さとを兼ね備えた威容は、「西国将軍」輝政の威を示すものでもある。姫路城以降は元和元年(1615年)の徳川幕府による一国一城令によって幕府の許可なく新たな築城や城の改修・補修が出来なくなったこともあり、江戸城や名古屋城といった徳川氏による築城を除いては姫路城に続くほどの規模の城は現れていない。

姫山北部には、築城以前の姿のままで残されている「姫山原生林」がある。この原生林の中には、本丸からの隠し通路の出口があるという噂があるが、今のところその存在は確認されていない。三の丸からは西の丸の石垣下にある鷺山口門が内堀に通じていた。

姫山の西を流れる船場川は、内堀に寄り添う形で流れており、堀同様の役割を果たしている。かつてはその名の通り水運のために利用されていた。

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姫路城を北方から望む(天守閣手前に姫山原生林が見える)

・通路と門
通路は迷路のように曲がりくねり、広くなったり狭くなったり、さらには天守へまっすぐ進めないようになっている。本来の地形や秀吉時代の縄張を生かしたものと考えられている。門もいくつかは一人ずつ通るのがやっとの狭さであったり、また、分かりにくい場所・構造をしていたりと、ともかく進みづらい構造をしている。当然これは防御のためのものであり、敵を迷わせ分散させ、袋小路で挟み撃ちにするための工夫がなされている。

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菱の門

例えば、現在の登城口(三の丸北側)から入ってすぐの菱の門からは、真っ直ぐいの門・ろの門・はの門の順に進めば天守への近道のように見えるが、実際は菱の門から右手に進んで石垣の中に隠された穴門であるるの門から進むのが近い。るの門は土砂で封鎖してしまえる埋門(うずみもん)でもあった。不意打ちのためのものであったとも考えられる。はの門からにの門へ至る通路は守り手側に背を向けなければ進めない。ほの門は極端に狭い鉄扉である。その後は天守群の周りを一周しなければ大天守へはたどり着けないようになっている。

画像の菱の門は伏見城から移されたという伝承があり、古式な姿を残している。

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ホの櫓           との一門

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にの門           にの門(内部)

・天守(天守閣)
姫路城の天守は江戸時代のままの姿で現在まで残っている天守の一つであり、まさしく姫路の象徴である。

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本丸から連立式天守を望む

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天守

姫路城の天守閣は姫山の頂上に設けられた天守台の上に、天正八年(1580年)の春、羽柴秀吉が現在の大天守に三層天守を構えたのが始まりである。その後池田輝政によって解体され、現在に姿を残している。

天守の構造は、東西二本の心柱で支えられた五重六階地下一階の七層の大天守と小天守3基(西・乾・東)で構成されている。天守の間は二重の渡り櫓で結ばれている。これを連立式と称する(現存12天守では伊予松山城が同じ)。建設時期や構成から後期望楼型に分類される。全体が白漆喰総塗籠造(しろしっくいそうぬりごめづくり)で、防火・耐火・鉄砲への防御のための構造にして、同時に美観を兼ね備えるためのものであると考えられる。「烏城」の異名で姫路城と対比される岡山城に代表されるような板壁が主であったこれ以前の城の外装が、漆喰壁へと移り変わったちょうどその過渡期にあたるものである。

その外観はほかの城の天守と比較しても非常に多様性に富んでいる。屋根の外見も大きく緩やかな曲線を描く唐破風(からはふ)、山なりの千鳥破風(ちどりはふ)、複数層にまたがる大入母屋破風といった具合に変化に富んでいる。窓も大天守二重目南面の唐破風の直下に置かれた巨大な出格子(でごうし)が目を引くが、一方で西・乾小天守にある釣り鐘のような形の火燈窓(かとうまど)も独特である。火燈窓は同様の後期望楼型天守である彦根城などにも見られる。

姫路城の天守は姫山(標高45.6m)の上に建っており、姫路城自体の高さは、石垣が14.85m、建物が31.5mなので合計すると海抜92mになる。天守の総重量は、現在はおよそ5,700tである。かつては6,200tほどであったとされるが、「昭和の大修理」に際して瓦などの軽量化が図られた。今日では天守内には姫路城にまつわる様々な品物が展示されている。

・西の丸
西の丸には現在は渡櫓とこれを結ぶ長局(ながつぼね)、そして、その北端に位置する化粧櫓のみが残っている。長局には侍女達の部屋が有る。化粧櫓は本多忠政が伊勢桑名から移ってきた時に、千姫の化粧料10万石で元和四年(1618年)に建てられたものである。千姫は西の丸内に設けられた中書丸(天樹院丸)と三の丸脇の武蔵野御殿に住んでいたが、いずれも現在は失われている。戦前の修理までは、化粧櫓にはその名の通り当時の化粧品の跡が残っていたという。

・腰曲輪・水曲輪
天守閣の北側にある腰曲輪(こしくるわ)には、籠城のための井戸や米蔵・塩蔵が設けられている。なお平時に用いる蔵は姫山の周囲に設けられていた。

天守の下は岩盤で井戸が掘れず、そのため天守と腰曲輪の間の補給の便のため水曲輪を設け、水一門から水五門までの門を設けている。

腰曲輪の中、ほの門内側に油壁(あぶらかべ)と呼ばれる土塀がある。白漆喰で塗られた他の壁と異なり、茶色の地肌が直接見える特異な姿をしている。製法やその理由については諸説有るが、秀吉時代の遺構という説もある。

・帯曲輪櫓(腹切丸)
天守閣の南東にある帯曲輪櫓(おびくるわやぐら)は別名を腹切丸(はらきりまる)と呼ばれる。本来は城の防御において射撃などに用いられる場所であったが、その薄暗い雰囲気に曲輪内の井戸なども相まってこの異名が生まれたものと考えられる。実際に切腹が行われたという記録はなく、そもそも城内で罪人などに切腹を行わせる事はあり得ない。

・防御施設
城壁には数多くの丸・三角・長方形の穴が開いている。これは狭間(はざま)という射撃用の穴で、長方形のものが矢狭間、他が鉄砲狭間である。長方形の狭間は他の城にもよく見られるが、様々な形の狭間をアクセントとして配置してあるのは独特である。狭間は姫路市内においても公共施設のデザインに組み込まれている(例えば橋の欄干、車止めブロックなどに丸・三角・四角の模様や穴が見られる)。さらに天守の壁に隠した隠狭間(非常時にのみ開かれる)、門や壁の中に仕込まれた石落し(ここから石・鉄砲・熱湯などで攻撃する)など、数多くの防御機構がその優美な姿の中に秘められている。

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西の丸(中央に化粧櫓)   腰曲輪の油壁

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帯曲輪櫓(腹切丸)     狭間

・その他の特徴的構造物
建物や塀の屋根に用いられている軒瓦などには、その瓦を作った時の城主の紋が彫り込まれている。池田氏の揚羽蝶紋、羽柴(豊臣)氏の桐紋、本多氏の三つ葉葵紋などがよく見られる。中には十字架のように見える十字の紋が彫り込まれた軒瓦もある。

・城主の居館
城主の居館は当初、天守台の下にある本丸にあって備前丸と称した。これは池田輝政の所領にちなむ名である。しかし、備前丸も山上で使いづらいため、本多忠政は三の丸に本城と称する館を立ててここに住んだ。以降の城主は本城、あるいは中曲輪の市の橋門内の西屋敷に居住している。徳川吉宗の時代の城主・榊原政岑が吉原から高尾太夫を落籍し住まわせたのもこの西屋敷である。西屋敷跡およびその一帯は今日では姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」として整備されている。

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三の丸広場

なお、今日では三の丸跡のうち本城跡には千姫ぼたん園、向屋敷跡には三の丸広場が開かれている。三の丸広場は市民の憩いの場となっており、各種のイベントスペースとしても使用される。

・中曲輪・外曲輪
中曲輪には侍屋敷、外曲輪には下級武士や町人の居住区などが置かれた。姫路市中心部に現在も残る町名として、鍛冶町・白銀町・金屋町・材木町・紺屋町などの職人の町、呉服町・綿町・米屋町・塩町・魚町・博労町などの商人の町、小姓町・鷹匠町・同心町・坊主町など身分にちなむ町名、上寺町・下寺町などの寺社の町がある。これらの多くが城郭の内にあり、江戸時代には日本では珍しい城郭都市を構成していた。このような「総構え」は他に江戸城や小田原城などにおける例がある。今日では中曲輪・外曲輪は堀と石垣の一部が残っているほか、国道372号に竹の門交差点、野里街道沿いに野里門郵便局といった形で門の名前が残っている。外曲輪の南側は山陽本線姫路駅付近にまで達していた。

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姫路市中心部(赤線内が内曲輪・緑線内が中曲輪・青線内が外曲輪)
航空写真(国土画像情報・国土交通省を元に作成)

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姫路城古地図

なお、姫路城所在地の姫路市本町68番地は、周囲の警察署・高校・美術館等をも含み、単独の番地としては皇居の千代田区千代田1番地に次ぐ広さといわれる。本町68番地は内曲輪および中曲輪の範囲に相当し、明治・大正時代には陸軍歩兵第十連隊が配置されていた。1980年代以降この一帯の整備および再開発事業が行われ、様々な文化施設・観光名所が立ち並ぶ一帯となっている。

■文化財
・国宝
大天守、東小天守、西小天守、乾小天守、い・ろ・は・にの渡櫓の8棟。

・重要文化財
姫路城
重要文化財(建造物/城郭):1931年(昭和6年)12月14日指定。
イの渡櫓、ロの渡櫓、ハの渡櫓、ニの渡櫓、ホの櫓、ヘの渡櫓、トの櫓、チの櫓、リの一渡櫓、リの二渡櫓、折廻り櫓、井郭櫓、帯の櫓、帯郭櫓、太鼓櫓、ニの櫓、ロの櫓、化粧櫓、カの渡櫓、ヌの櫓、ヨの渡櫓、ルの櫓、タの渡櫓、ヲの櫓、レの渡櫓、ワの櫓、カの櫓、菱の門、いの門、ろの門、はの門、にの門、への門、との一門、との二門、との四門、ちの門、りの門、ぬの門、水の一門、水の二門、備前門、との四門東方土塀、との四門西方土塀、との二門東方土塀、との一門東方土塀、への門東方土塀、への門西方土塀、水の一門北方築地塀、水の一門西方土塀、ニの櫓南方土塀、水の五門南方土塀、イの渡櫓南方土塀、にの門東方上土塀、にの門東方下土塀、ロの櫓東方土塀、ロの櫓西方土塀、はの門東方土塀、はの門西方土塀、はの門南方土塀、ろの門東方土塀、ろの門西南方土塀、化粧櫓南方土塀、ワの櫓東方土塀、カの櫓北方土塀、菱の門西方土塀、菱の門南方土塀、菱の門東方土塀、いの門東方土塀、太鼓櫓南方土塀、太鼓櫓北方土塀、帯郭櫓北方土塀、井郭櫓南方土塀、トの櫓南方土塀、計74棟

・特別史跡
姫路城跡
特別史跡:1956年(昭和31年)11月26日指定。

■観光
・料金
大人:600円
子供:200円
その他、団体割引あり。

■アクセス
・山陽新幹線・山陽本線姫路駅北口、山陽電鉄山陽姫路駅より歩いて20分。
・神姫バス「姫路城大手門前」下車すぐ。土日祝日には神姫バスにより「姫路城ループバス」も運転される。
・城周囲に公営駐車場多数。

■外部リンク
姫路城大図鑑(姫路市)
姫路城の達人(姫路観光協会)
姫路城・城の写真(姫路城フリー写真)
姫路城(Wikimapia 航空写真)

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