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■古都京都の文化財(こときょうとのぶんかざい)
・登録区分 文化遺産
・登録年 1994年

鹿苑寺舎利殿(金閣)
■概要
古都京都の文化財は、京都府京都市・宇治市、滋賀県大津市に存在する寺院等の総称。1994年にユネスコの世界遺産(文化遺産)として登録された。
京都は8世紀から17世紀の間、宗教・非宗教建築と庭園設計の進化にとって主要中心地であった。そのように、京都は日本の文化的伝統の創出において決定的な役割を果たし、特に庭園の場合においては19世紀以降世界の他の地域において意義深い影響を与えた。
京都の現存文化財における建築と庭園設計の集積は前近代における日本の物質文化のこの側面に関する最高の表現である。
■拡大登録計画
登録当時から時間が経過し周辺環境や景観の悪化が進行しつつあるため、京都市を中心に遺産の追加登録計画が持ち上がっている。具体的には、知恩院・大徳寺・永観堂禅林寺が登録に前向きの姿勢を示している。
そして、京都市が京都御所・嵯峨嵐山一帯の追加登録を目指している。また東山一帯・桂離宮・修学院離宮についても検討している。
■世界遺産
・賀茂別雷神社(上賀茂神社)
・賀茂御祖神社(下鴨神社)
・教王護国寺(東寺)
・清水寺
・延暦寺
・醍醐寺
・仁和寺
・平等院
・宇治上神社
・高山寺
・西芳寺(苔寺)
・天龍寺
・鹿苑寺(金閣寺)
・慈照寺(銀閣寺)
・龍安寺
・西本願寺
・二条城
■地図

■外部リンク
・京都市情報館
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■賀茂別雷神社(上賀茂神社)
・所在地 京都府京都市北区上賀茂本山339
・主祭神 賀茂別雷大神
・創建 伝天武天皇7年(678年)
賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は、京都市北区にある神社である。通称上賀茂神社(かみがもじんじゃ)。式内社、山城国一宮、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。
賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称される。賀茂神社両社の祭事である葵祭で有名である。
賀茂氏の祖神である賀茂別雷命(かもわけみかづちのみこと)を祀る。「別雷」は「若雷」の意味で、若々しい力に満ちた雷(神鳴り)の神という意味である。

細殿と立砂
・歴史
創建については諸説ある。社伝では、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られている。
国史では、文武天皇2年(698年)3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出で、他にも天平勝宝2年(750年)に御戸代田一町が寄進されるなど、朝廷からの崇敬を受けてきたことがわかる。794年の平安遷都の後は王城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。延喜式神名帳では名神大社に列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年(810年)以降約400年にわたって、伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。
明治の社格制度でも、官幣大社の筆頭という、伊勢神宮の次位の神社とされ、明治16年には勅祭社に定められた。
・アクセス
最寄駅・・・京都市営地下鉄 北山駅
京都市営バス・・・上賀茂御園橋(賀茂川対岸)、上賀茂神社前(神社敷地内、同地には市バスの操 車 場が有る)
京都バス・・・上賀茂神社前
駐車場・・・有り
・外部リンク
上賀茂神社(公式サイト)
■賀茂御祖神社(下鴨神社)
・所在地 京都府京都市左京区下鴨泉川町59
・主祭神 玉依姫命 賀茂建角身命
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は、京都市左京区にある神社である。通称下鴨神社(しもがもじんじゃ)。式内社、山城国一宮、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称され、両社をもって一社のような扱いをされてきた。賀茂神社両社の祭事である葵祭で有名である。
上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の母の玉依姫命および玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀ることから「賀茂御祖神社」と呼ばれる。八咫烏は賀茂建角身命の化身である。

楼門・楼門廻廊
・歴史
社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したと伝える。一説には、天平のころに上賀茂神社から分置されたとされる。上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けた。平安遷都の後はより一層の崇敬を受けるようになり、大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。延喜式神名帳では名神大社に列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年(810年)以降約400年にわたり、斎院が置かれ皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。

下鴨神社参道 糺(ただす)の森

御手洗社

御手洗社の手洗場

8月に開催される古本市

河合神社
・アクセス
最寄駅・・・京阪電気鉄道出町柳駅
駐車場・・・有り
・外部リンク
下鴨神社(公式サイト)
■教王護国寺(東寺)
・所在地 京都府京都市南区九条町1
・宗派 東寺真言宗総本山
・本尊 薬師如来(重要文化財)
・創建年 延暦15年(796年)
・開基 官立(桓武天皇)
東寺(とうじ)は空海(弘法大師)ゆかりの寺院である。宗派は東寺真言宗総本山。山号は八幡山、本尊は薬師如来である。「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録された。
東寺の正式名として金光明四天王教王護国寺秘密伝法院と弥勒八幡山総持普賢院の2つの名称がある。
宗教法人としての公称は教王護国寺(きょうおうごこくじ、詳名は金光明四天王教王護国寺秘密伝法院)。

五重塔(国宝)
・概要
8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」(さいじ)という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。
このうち東寺は後に弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門、金堂、講堂、食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。
なお、羅城門を挟んで対称的な位置にあった西寺は早い時期に衰退し、現在は京都市南区唐橋の児童公園内に「史跡西寺跡」の碑があり、付近に「西寺」の寺名のみを継いだ小寺院が残るのみである。
・歴史
『東宝記』(南北朝時代に成立した、東寺の記録書)の記載によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796年)、藤原伊勢人という人物が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。藤原伊勢人という人物については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの796年を創建の年としている。それから20数年後の弘仁14年(823年)、真言宗の宗祖である空海は、嵯峨天皇から東寺を賜った。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。
弘法大師空海(774年−835年)は、讃岐国(香川県)出身の僧。真言宗の開祖であり、東寺と高野山(金剛峯寺)の基礎を築いた実在の人物であるが、後世には空海自身が「お大師様」として信仰の対象となり、なかば伝説化された存在となっている。30歳頃までの青年期には奈良の寺々で学問にはげみ、山林に分け入って修行していた無名の僧であった空海は、延暦23年(804年)、留学生(るがくしょう)として唐に渡った。彼は当時の唐の都・長安(現・西安)で青竜寺の恵果和尚に師事し、密教の奥義の伝授を受け、2年後の大同元年(806年)に帰国した。空海が、若い頃に修行したことのある高野山を下賜されたのは弘仁7年(816年)のことであり、その7年後の弘仁14年(823年)に東寺を下賜されている。
東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院(1181年〜1252年)であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。
中世以後の東寺は後宇多天皇、後醍醐天皇、足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明18年(1486年)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家、徳川家などの援助により、金堂、五重塔などが再建されている。
・「東寺」と「教王護国寺」
この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称があり、百科事典等でも「東寺」を見出し語とするものと「教王護国寺」を見出し語とするものがある。「教王」とは「王を教化する」との意味であり、「教王護国寺」という名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められている。宗教法人としての公称は「教王護国寺」であり、たとえば、五重塔の国宝指定官報告示の際の指定名称は「教王護国寺五重塔」となっている。そうした観点からは、近代以降の法人名としては「教王護国寺」が正式名称であるといえる。ただし、「東寺」という名称も単なる通称・俗称ではなく、創建当時から使用されてきた歴史的名称である。現代においても、南大門前の石柱には「真言宗総本山 東寺」とあり、南大門、北大門、慶賀門などに掲げられた寺名入りの提灯には「東寺」とあり、宝物館の名称を「東寺宝物館」とするなど、寺側でも通常は「東寺」の呼称を使用している。
平安時代以降近世まで、公式の文書、記録等には原則として「東寺」という表記が用いられ、それが正式名称であり、「教王護国寺」という呼称は特殊な場合以外には用いられなかった。「教王護国寺」という名称は平安時代の記録類には一切見えず、正式の文書におけるこの寺号の初出は仁治元年(1240年)である。後宇多天皇宸翰の国宝「東寺興隆条々事書」(延慶8年=1308年)、後宇多天皇宸翰「庄園敷地施入状」、豊臣秀吉が2,030石の知行を認めた天正19年(1591年)の朱印状など、寺の歴史に関わる最重要文書にも明確に「東寺」と表記されている。
・伽藍
金堂(国宝)
現存の建物は慶長8年(1603年)、豊臣秀頼の寄進によって再建したもの。内部には広大な空間の中に本尊の薬師三尊像が安置されている。中尊の像高2.9メートルに達する巨像で、日本の仏教彫刻衰退期である桃山時代における佳作である。

東寺金堂
講堂(重文)
室町時代の延徳3年(1491年)の再建。金堂が顕教系の薬師如来を本尊とするのに対し、講堂には大日如来をはじめとする21体の密教彫像が所狭しと安置されている。これらは、日本最古の本格的な密教彫像である。講堂の諸仏は空海没後の承和6年(839年)に完成しているが、全体の構想は空海によるものである。堂内中央には五仏(五智如来)、堂内向かって右(東方)には五大菩薩、向かって左(西方)には五大明王を安置するほか、堂内の東西端には梵天・帝釈天像、壇上四隅には四天王像を安置する。これら21体の仏像のうち、五仏のすべてと五大菩薩の中尊像は後世の補作に代わっており、残りの15体が国宝に指定されている(五仏は重要文化財に指定)。

東寺講堂
食堂(じきどう)
空海没後、9世紀末から10世紀初めにかけて完成した。1930年(昭和5年)の火災で焼失し、現在の建物はその後の再建。本尊の千手観音立像は火災で焼損したが、1960年代に修理され、現在は寺内の宝物館に安置されている。
五重塔(国宝)
東寺のというよりは京都のシンボルとなっている塔である。高さ54.8メートルで木造塔としては日本一の高さを誇る。現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)、徳川家光の寄進で建てられた。創建は空海没後の9世紀末であった。
御影堂(国宝)
南北朝時代に建てられた住宅風の仏堂である。国宝指定の名称は「大師堂」だが、一般には御影堂と呼ばれている。この堂のある一画を「西院」といい、空海の住房跡とされている。康暦元年(1379年)の火災による焼失後、その翌年に再建されたのが現存の建物である。ただし、堂の北半分は弘法大師像を安置するために明徳元年(1390年)に増築されたものである。堂の南側には空海の念持仏とされる不動明王坐像(国宝、9世紀)を安置する。厳重な秘仏で非公開であるが、日本の不動明王像としては最古の作例の1つである。堂の北側には弘法大師坐像(国宝)を安置する。この像は天福元年(1233年)運慶の4男康勝が制作したものである。この像は庶民の信仰を広く集めており、像の前では、毎朝6時に「お大師様」に朝食を捧げる「生身供」(しょうじんく)が執り行われ、多くの参拝者が集まる。

大師堂
観智院客殿(国宝)
慶長11年(1606年)の建立。

観智院
灌頂院(重文)
伝法灌頂(密教の奥義を師匠から弟子へ伝える儀式)、後七日御修法(ごしちにちのみしほ:正月の8日から14日までの間に、天皇の安泰を祈願する儀式)などの儀式を執り行うための堂で、内部には仏像は安置されていない。
宝蔵(重文)
平安後期建立の校倉(あぜくら)造倉庫。東寺最古の建造物。
八幡宮
1868年(明治元年)に焼失後、1世紀以上を経た1992年(平成4年)に再建。東寺の鎮守神である僧形八幡神像と女神(じょしん)像2体を安置する。
南大門(重文)
1895年(明治28年)、三十三間堂の西門を移築したもの。九条通り(九条大路)に面しており、京阪国道口交差点から東へ約100mの場所にある。
小子房
1934年(昭和9年)に再建されたもの。内部は6個の部屋(鷲の間、雛鶏の間、勅使の間、牡丹の間、瓜の間、枇杷の間)からなる。各部屋の障壁画は堂本印象により描かれた。小子房の西の門は蓮華門と呼ばれ国宝である。
なお、東寺境内に接して洛南高等学校・附属中学校がある。 また、東方に東寺執行職(しぎょうしょく)を世襲した空海の母方の実家でもある、阿刀氏が奉祀する石上神社があり、物部氏の氏神石上神宮との関係から、物部氏の神道に於ける呪術性(例:十種神宝の呪術)が、東寺密教に影響を与えた可能性も考えられる。
・弘法市
毎月21日は弘法大師にちなみ「弘法市」が開かれ、縁日が並ぶ。この市は俗に「弘法さん」と呼ばれて親しまれている。特に師走21日の「終い弘法」には、多くの人々が詰めかける。
・外部リンク
弘法市〜東寺縁日
■清水寺
・所在地 京都府京都市東山区清水1-294
・宗派 北法相宗大本山
・本尊 千手観音(秘仏)
・創建年 宝亀9年(778年)
・開基 延鎮
清水寺(きよみずでら)は、京都府京都市東山区清水にある寺院。山号を音羽山と称する。本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮上人である。宗派はもと法相宗に属したが現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。
清水寺は、金閣寺(鹿苑寺)、嵐山などと並ぶ、京都でも指折りの観光名所で、季節を問わず多くの参詣人で賑わっている。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場として古くから知られ、平安時代以来、文学作品などにもたびたび登場する著名寺院である。西国三十三箇所観音霊場の第16番札所であり、古都京都の文化財の一部として世界遺産にも登録された。

本堂と舞台(国宝)
・起源と歴史
広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。清水寺の縁起はさまざまな伝本があり、『今昔物語集』『扶桑略記』などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば草創縁起は大略次のとおりである。宝亀9年(778年)、大和国子島寺(奈良県高市郡高取町に現存)の僧・延鎮上人が、夢のお告げで霊泉を訪ねてたどりついたのが、今、清水寺の建つ音羽山であった。そこにはこの山に篭って数百年も修行を続けているという行叡居士(ぎょうえいこじ)という修行者(観音の化身ともいう)がいた。行叡は「自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。延鎮は、行叡居士が残していった霊木に観音像を刻み、草庵に安置した。これが清水寺のはじまりという。
その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758〜811)は、修行中の延鎮に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となった田村麻呂は、観音の加護の賜物か、無事東国の蝦夷を平定し、都に帰ることができた。延暦17年(798年)、延鎮と田村麻呂は協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀ったという。
以上の話には細かい点については異伝もある。創建の年については宝亀11年(780年)でなく延暦17年(798年)とする場合もあり、延鎮が最初に分け入ったのは木津川の上流の山で、平城京遷都に際して今の音羽山に移ったとする話もある。これらの話は、根拠のない伝説として無視すべきではなく、何らかの史実をもとにしていると思われ、その根幹には日本古来の山岳信仰、水源信仰があると思われる。
延暦24年(805年)に坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)、嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となったことは史実とされ、この頃に本格的な寺観が整ったようである。
清水寺は『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』、『梁塵秘抄』などの古典文学に言及されている。『枕草子』は、「さはがしきもの」の例として清水寺の縁日の日を挙げており、平安時代、既に多くの参詣者を集めていたことが伺われる。近世には浄瑠璃、歌舞伎などにも清水寺が登場する。
清水寺は、京都では珍しい法相宗(南都六宗の1つ)寺院で、長らく興福寺の支配下にあった。本堂をはじめとする伽藍はたびたび火災にあっており、現在の本堂は寛永10年(1633年)、徳川家光の寄進による再建である。他の諸堂も多くはこの年に再建されている。
・境内
東大路通から清水寺までの約1キロの坂道は清水坂と称され、道の両側には観光客向けのみやげ物店などが軒を連ねている。境内は標高242メートルの清水山(音羽山)中腹に石垣を築いて整地され、多くの建物が軒を接するように建ち並んでいる。入口の仁王門を過ぎ、西門、三重塔、鐘楼、経堂、田村堂(開山堂)、朝倉堂などを経て本堂に至る。本堂の先、境内の東側には北から釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院が崖に面して建つ。本堂東側の石段を下りた先には寺名の由来でもある名水が3本の筧(かけい)から流れ落ちており、「音羽の滝」と呼ばれている。音羽の滝からさらに南へ進むと、「錦雲渓」と呼ばれる谷を越えた先に塔頭寺院の泰産寺があり、「子安塔」と呼ばれる小さな三重塔がある。このほか、本堂の北に鎮守社の地主神社(じしゅじんじゃ)があり、さらに北には清水寺本坊の成就院がある。

音羽の滝
本堂(国宝)
徳川家光の寄進により寛永10年(1633年)に再建されたもの。「清水の舞台」で知られる建物である。屋根は寄棟造、檜皮葺きで、正面(南面)左右に入母屋造の翼廊が突き出し、外観に変化を与えている。建物の前半部分は山の斜面にせり出すようにして建てられ、多くの長大な柱(139本という)が「舞台」と呼ばれるせり出し部分を支えている。このような構造を「懸造」(かけづくり)、あるいは「舞台造」と言い、観音菩薩は補陀洛山(ふだらくさん)に現われるという「観音経」の所説に基づくものである。観音霊場として名高い長谷寺や石山寺の本堂が同様の「懸造」である点も注意される。
内陣には、秘仏本尊の千手観音、毘沙門天、地蔵菩薩をそれぞれ安置する3基の厨子が置かれ、本尊厨子の周囲には千手観音の眷属である二十八部衆と風神・雷神像が安置される。本尊の千手観音立像は、42本の手のうち、2本を頭上で組み合わせる特殊な形の像であり、33年に1度開扉の秘仏である(2000年3月3日から同年12月3日まで開扉された)。
思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と言うが、ある調査によれば、実際に飛び降りた人が1694年〜1864年の間に234件(未遂を含む。記録のあるものだけ。清水寺に残る古文書「成就院日記」には記録が抜けている時期があり、記録が残っている148年分の合計。年間発生件数が同程度だとすると江戸時代全体では424人と推定される。・・・らしい。)に上り、生存率は85.4パーセントと意外に高かったという。観音の住むという補陀洛浄土へ旅立とうとして飛び降りた者が多かったと見られる。

春の本堂と舞台(清水の舞台)

奥の院
本堂の全貌を見渡すことができる位置に建つ。本堂より小規模ながら、崖にせり出した懸造の建物である。本堂と同様に千手観音、毘沙門天、地蔵菩薩、二十八部衆、風神・雷神の諸仏を安置する(ただし本尊は立像でなく坐像)。本尊の秘仏千手観音坐像(重文)は、鎌倉時代の作で像高69センチ。正面・右・左の3つの顔をもち、頭上に25の小面を乗せた特異な形の像で、2002年に重要文化財に指定されている。本像は2003年3月7日〜12月7日まで開帳された(寺によれば243年ぶりの開帳という)。
成就院
境内北方にある、清水寺の本坊。池泉回遊式庭園は国の名勝に指定されている。秋季などに行われる特別公開の時期を除き、通常は非公開である。なお、内部での撮影は原則として禁止となっている。
地主神社
本堂の北にある、清水寺の鎮守社で縁結びの神として信仰を集めている。本殿、拝殿、総門は清水寺本堂と同じく寛永10年(1633年)の再建である。ちなみに清水寺・仁王門前にあり、しばしば「なぜお寺の入り口にあるのか」と参拝者に不思議がられる狛犬は地主神社のものである。

三重塔

三重塔のシルエット
・その他
清水寺貫主の故大西良慶が、本寺を法相宗から独立させ北法相宗を設立した。大西は晩年には日本最高齢者となったこともあり、日本初の五つ子の名付け親としても有名であった。
バブル期より毎年12月12日(漢字の日、ただし事情によりずれる場合もある)に、関西の大手電気機器製造メーカーと縁の深い財団法人日本漢字能力検定協会主催によりその年の世相を漢字一字で表現する「今年の漢字」が清水寺で発表される。
古都税問題では、その財力をパックにして「拝観禁止」の強行手段に訴え世間の糾弾を浴びたが同一戦線の仲間を置き去りにして撤回するなど見通しが悪い面もある。
スイスの財団が実施している「新・世界七不思議」を選ぶ取り組みで、京都市東山区の清水寺が日本で唯一、中国の万里の長城やフランスのエッフェル塔などとともに最終候補地に選ばれ、それを記念して財団から賞状を受けた。
世界の驚異的な物件を決める現代版新・世界七不思議の候補地の一つにノミネートされインターネットと電話による投票が行われていたが、2007年7月7日にリスボンで発表された最終結果では落選した。
坂上田村麻呂のゆかりからアテルイとモレを慰霊する石碑(1994年建立)がある。
・アクセス
京都市営バス「清水道」及び京阪バス「五条坂」停留所下車徒歩約14分
・外部サイト
清水寺公式ホームページ
地主神社公式ページ
■延暦寺
■醍醐寺
■仁和寺
■平等院
■宇治上神社
■高山寺
■西芳寺(苔寺)
■天龍寺
■鹿苑寺(金閣寺)
■慈照寺(銀閣寺)
■龍安寺
■西本願寺
■二条城

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