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■ゴアの教会群と修道院群
・登録区分 文化遺産
・登録年 1986年

ゴアの地図
■概要
ゴア(ポルトガル語:Goa)は、インド西海岸の州である。16世紀から20世紀半ばまで、ポルトガル領インドの一部でありポルトガルのアジアにおける拠点であった。1986年には、聖フランシスコ・ザビエルの墓を収容するボム・ジェズ・バシリカや聖フランシス修道院など、ポルトガル時代のキリスト教建築が「ゴアの聖堂と修道院」としてユネスコ世界遺産に登録された。
ゴアはインド西海岸中部のマンドウィー河の河口にある島に位置し、天然の良港を有する。16世紀初めには、イスラーム王朝のビジャープル王国の重要都市であった。1510年2月、ポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケが1,000人のポルトガル兵を率いて来航し、この都市を降伏させた。しかし、ゴアの要塞が老巧化しており使えなかったため、同年5月にビジャープル王国のスルタンが50,000の兵を率いて攻撃してくると一旦引き上げた。アフォンソ・デ・アルブケルケは、ポルトガル本国からの増援が到着すると、同年11月2,000のポルトガル兵によってゴアを再び陥落させた。ビジャープルのスルタンは、何度もゴアを攻撃したが奪回できなかった。1512年には、ゴア要塞へ通じる水路を制するベナステリム要塞を奪取し、ゴアに病院といくつかの教会を建設した。
■地図

インド国内の位置
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■黄金のゴア
1530年、ポルトガル領インドの首府はコーチンからゴアに移され、アジアの全植民地を統治するポルトガルのインド総督あるいはインド副王が駐在した。ゴアとリスボンの間には、喜望峰経由の定期航路が開かれ多くのポルトガル人をアジアに送り出し、アジアの富をポルトガルに持ち帰った。1534年にはローマ教会の大司教座が設置され、ローマ教会において全アジアを管轄する中心となり、これを機にサンタ・カタリナ大聖堂が建設された(1562年〜1619年)。17世紀初頭のゴアは、モザンビークから長崎に広がるポルトガル海上帝国の首府として、「東洋のローマ」と呼ばれる黄金時代を迎えた。当時のゴアの人口は20万人に達し、市内には壮麗な教会や修道院、総督府などの建物が立ち並んで、ヨーロッパの都市にも引けを取らなかったとされる。
■ポルトガル支配の衰退とインドによる併合
17世紀にアジアに進出したオランダがポルトガル船を拿捕したり、マラッカなどポルトガル植民地を奪取すると、ポルトガルの海上覇権は次第に衰えていった。しかし、オランダはゴアを何度も包囲したが、ゴアを陥落させることはできなかった。その後、イギリスがインドに植民地帝国を建設した時も、ポルトガルはゴア、ディーウ、ダマンなどの都市の領有を保持した。
第二次世界大戦においてポルトガルは中立国の立場をとったため、ゴアは東アフリカのモザンビーク植民地のロレンソ・マルケスとともに、抑留されていた交戦国民の交換船による交換地となった。
1947年、インドがイギリスから独立するとインド政府はポルトガルにも領土の返還を求めたが、当時のアントニオ・サラザール独裁政権は応じなかった。このため、1961年インド国民軍がポルトガル領に武力侵攻し、インドにおけるポルトガルの植民地支配はようやく終結した。
■現在のゴア
インドによるゴア併合は、ソビエト連邦の反対により国連安保理では受け入れられなかったが、多くの国が植民地独立の一つとして支持し、1974年、カーネーション革命を経てポルトガルは公式に主権を放棄した。1987年にパナジを首府とするゴア州が設置された。2001年現在の州の人口は135万人である。州内では英語やコンカニー語などが使用されているが、ポルトガル語を話す住民も30,000から50,000人程度存在する。
ポルトガル植民地時代の建物と文化が残っており、リゾート地として国内外の観光客を集めている。この地の音楽から生まれたゴアトランスは、サイケデリックトランスとして世界に広まった。
■外部リンク
・ゴアの聖堂と修道院(日本語)

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